大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付・仙石伯耆守のもとに出頭させ口上書を提出し、幕府の裁定に委ねることにした。幕府は46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に引き揚げさせて、それから細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の4大名家に預けさせた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。
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赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士は熱烈に賞賛した。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か助命かで対応に苦慮した。また、当初は幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいたとされている(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激したとされる幕閣も存在して、その内部でも意見の違いがあった。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日(2月8日)に「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げ。」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出している。
学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げることはできないとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張する。
こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾くが、かつての自分の裁断が過ちだったことを認めてしまうことにもなりかねないので、皇族から出された恩赦という形を得るため、輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁し、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至った。 しかし法親王は「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今、死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる。」と延べ、これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意した。
元禄16年2月4日(3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下した。
46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。遺骸は主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。浪士達は切腹の作法を知らず、前日に教えられた上で切腹したとされている。
赤穂浪士の遺子のうち、出家した者を除き15歳以上の男子は流罪となった。宝永3年1月20日(1706年3月4日)、吉良義周が配流地で死去し、三河吉良家の宗家は絶えた。
宝永6年1月10日(1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し家宣が将軍を継ぐと、恩赦が出され赤穂浪士の遺子たちも放免となった。同年8月、浅野大学は赦免され、500石を拝領して再び旗本となり、寄合に列せられた。正徳3年(1713年)、内蔵助の三男である大三郎は広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた。
逸話や伝承の類
元禄赤穂事件には忠臣蔵への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。
脇坂安照が吉良に一矢報いる
殿中刃傷があった直後、播磨国竜野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良上野介とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。
村上喜剣
薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石内蔵助をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良上野介を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるとされる。
大野や奥野は第二陣であった
大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が失敗した時に備えた第二陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県の板谷峠に潜伏していた。しかし大石の討ち入りが成功したという報を聞き、大野は歓喜してその場で自害したとするもの(実際に板谷峠に大野の墓が現存しているが、後世の人間に作られたといわれる)。奥野将監にも同様に第二陣の大将とする逸話があるが、彼にはさらに浅野長矩の隠し子の姫を幕府に知られぬようこっそり育てる役目を大石から命じられていたためやむなく脱盟したという逸話がある。
大高源五の詫び証文の逸話
大高源五が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかしながらこの大高の詫び証文とされているものは後世の人が作ったものと言われている。神崎与五郎にも同様の逸話がある。
岡野金右衛門とお艶の逸話
岡野金右衛門は吉良邸絵図面を手に入れるため、吉良上野介の本所屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘お艶と恋人になる。しかし金右衛門はやがて本当にお艶に本当に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。
大高源五と宝井其角
大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人宝井其角とも親交があったため、このような逸話が残る。討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。
赤埴源蔵、徳利の別れ
赤埴源蔵重賢は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる。」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を飲み交わし、帰って行く。その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良上野介の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。
俵星玄蕃
杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。これは文化の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作とされる。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は仮名手本忠臣蔵の主人公大星由良助(大石内蔵助がモデル)の「星」の字。
上杉家の忠臣
討ち入りを聞いた上杉綱憲は実父を助けるため吉良邸への出兵を宣言。しかし江戸家老色部又四郎(または千坂兵部)が上杉の御家を守るために主人の前に立ちふさがり、「殿は吉良家の御当主にならず!上杉家の御当主でございますぞ!」と一喝。綱憲はその迫力に威圧されて出兵を諦めるしかなかった。大佛次郎の小説「赤穂浪士」に上杉家の江戸家老が上杉綱憲を止める場面があることにちなむ。しかし色部は実父の喪に服していてこの日上杉家に出仕しておらず、このようなことはできなかった。実際に綱憲を止めに来たのは家臣ではなく上杉家親族の高家畠山義寧。また討ち入り中ではなく討ち入り後のことである。
色部や千坂ではなく、綱憲の母富子が綱憲を押しとどめるという逸話もある。
南部坂雪の別れ
討ち入り直前、大石内蔵助は南部坂の浅野長矩正室瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。 物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が内蔵助の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合も。
その他
「不忠臣」のその後
赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で(寺坂は士分ではなく足軽身分)、8割以上が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招へいされる一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志片岡源五右衛門から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林杢之助も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父内田三郎右衛門に家を追い出されるなどしている。元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗るほかなかったとされる。
ただし、江戸時代に同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切った意趣返しをしたのは本件だけであり、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったとして倫理的な批判が向けられたわけではない。
刃傷事件の原因
浅野内匠頭の「この間の遺恨覚えたか」という発言に関しては、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』に内匠頭が「遺恨あり」と証言していることが記されている。いずれの書物も内匠頭が遺恨を主張していることについては触れているが、刃傷の原因となった「遺恨」の細かい内容については記していない。
『忠臣蔵』などの芝居に由来する通説では、院使饗応役の伊達左京亮が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良上野介へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野内匠頭は鰹節2本しか贈らなかったために賄賂好き(後述の様に、現在の賄賂とは意味合いが異なる)な吉良上野介の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野内匠頭に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。しかし内匠頭は17年前の天和3年(1683年)にも同じ勅使饗応役に就任している。
また進物や賄賂についても、公費の予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった。広大な領地と莫大な石高をもつ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮旗本に過ぎないので、わずかな領地と石高しかもっていない。吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野内匠頭の収入に及ぶべくもない。高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料や必要経費の性格が強く、当時は別に卑しまれている類のものではなかった。
浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出する塩の製法と販路の問題で対立があったという説があった。これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆『吉良の塩』の中で唱えていたものである。しかし、実際には吉良上野の領地にあったとされる塩田の遺跡は大河内家の領土であった。塩による遺恨説は、飛び地の領土に気付かずに吉良の領土に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。
両者の性格に原因を求める説もある。浅野内匠頭については痞(つかえ)という、今で言う心療内科的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかとも言われている。史実だけを見ると、浅野内匠頭は、47士の1人千馬三郎兵衛を閉門処分にしており、重臣近藤正憲も組頭から解任している。また47士の1人不破数右衛門も藩から追放している。このうち千馬は直言癖があり、不破は人を斬って、それぞれ内匠頭を激怒させたといわれている。
吉良上野介は、亀井隠岐守茲親を苛めたという逸話が津和野に残っており、嫌がらせが常習的だったとも言われる。大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説を採っており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をして、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。また史実を見ると、吉良上野介は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。破綻寸前となった上杉家を上杉鷹山が立て直すエピソードが有名だが、そこまで上杉家を傾けたのは上野介とも言われている。
しかし、実際には関ヶ原の役に際して徳川家康に敵対し、米沢藩50万石余りに減封されるものの、120万石を領有していた当時の藩士を解雇しなかった為、収支に対し人件費だけでも倍の出費を強いられ、また体面を保つ為の出費も著しかったなど、一概に上野介のみを非難する向きも疑問があり、仮名手本忠臣蔵を盾に、自藩の失策を弁明しているとも受け取る事が出来る。
吉良上野介が浅野内匠頭に美しい小姓を譲ってくれるよう懇望したが、断られたため恨みをいだいたという男色(衆道)遺恨説も、幾つかの文献に記されている。
学術的にはほとんど取り上げられていないものの、陰謀史観の一つとして、本来は吉良上野介の側を陥れるはずだった陰謀に浅野内匠頭が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした御台所鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説もある。
東京大学総合図書館蔵、南葵文庫の『梶川日記』によれば、刃傷のときに浅野が「この間の遺恨覚えたか」などと叫んだ事実はなく、ただわめきながらいきなり斬り付けたとなっている。しかし、上野介の傷を治療した栗崎道有という医者が、当時の内匠頭について「乱心にあらず」と記録している。
内蔵助の意図
内蔵助がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の内蔵助の実筆の手紙(お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙)に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。
幕府裁定の正当性
本件に関する幕府の裁定は浅野の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良は抜刀はしていないので理由の如何を問わず無罪となる。主君である浅野内匠頭だけが切腹となり、吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと言われており、確かに江戸前期の刃傷事件には喧嘩両成敗の“判例”がいくつかある。
元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。
寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。喧嘩両成敗により猶村は切腹改易、鈴木と木造も改易となった。
寛永5年(1628年):目付豊島刑部少輔明重が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した豊島事件
貞享元年(1684年):若年寄稲葉石見守正休が、本丸で大老堀田筑前守正俊を殺害し、正休もその場で殺害された事件。
江戸城外でも刃傷事件が発生している。
慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼(遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。久米と松平はその場で斬られて死んだ。喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、服部も捕らえられて切腹改易となった。また直接は関係ない水野も切腹となった。原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。
延宝8年(1680年)6月26日、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長に対して刃傷に及んだ。内藤は切腹改易。永井は即死した。永井家も改易に処されたが、これは喧嘩両成敗ではなく無嗣のためであった。
徳川家光の時代から徳川綱吉の時代まで長く刃傷事件がなく、また綱吉時代に起こった殿中刃傷にしても、被害者がその場で殺害されており、ただ加害者を切腹させればよいだけで、被害者も加害者も生き残った例が長く存在しなかった。
「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であり、かぶき者が好んだ法であった。戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠はこれを幕法として採用したが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世である。戦国時代の残滓が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあったという。
江戸幕府は身分制社会であり、法や捜査は決して近代的でないし平等でもない。「喧嘩両成敗」の概念は要するに捜査の価値もない禄高の低い軽輩者の喧嘩をおさめ、捜査の手間暇を省くために適用されることが多かった。大名身分に喧嘩両成敗の適用は伊達美作守村和の事例ぐらいしかない。
後世にひとつだけ浅野と吉良の事件に似た刃傷事件が発生している。徳川吉宗の時代の享保10年7月28日(1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件である。水野忠恒(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野を秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われる。
後世の顕彰
1868年(明治元年11月)、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する勅語を贈った。これは江戸庶民に親しまれていた大石を顕彰することで、新政府への共感を得る効果があった。
創作物
忠臣蔵十一段目夜討之図。(江戸後期 歌川国芳)
浪士を描いた浮世絵。(江戸後期、歌川国芳)事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。劇化の詳細については、忠臣蔵を参照のこと。
小説
芥川龍之介『或日の大石内蔵助』 (1921年)ISBN 4000919725
大佛次郎『赤穂浪士』(1927年)ISBN 4829110228
池宮彰一郎
四十七人の刺客(1992年)上巻;ISBN 4043687036,下巻;ISBN 4043687044
その日の吉良上野介(1996年)ISBN 4043687052
最後の忠臣蔵 ISBN 4043687109(『四十七人目の浪士』(1997年)ISBN 4101408130 改題)
井沢元彦『元禄十五年の反逆』(1988年) ISBN 4106027054,文庫版(1992年) ISBN 410119212X
小林信彦『裏表忠臣蔵』(1988年)ISBN 4103318139,新潮文庫版(1992年) ISBN 4101158231,文春文庫版(1998年) ISBN 416725607X
宮部みゆき 『震える岩―霊験お初捕物控』
評論
丸谷才一 『忠臣蔵とは何か』(1984年)ISBN 406196013X (忠臣蔵のみならず、事件の本質にも言及)
野口武彦 『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書 1994年 ちくま学芸文庫 2007年)
尾崎秀樹編 『徹底検証「忠臣蔵」の謎』(講談社文庫 1998年)
漫画
杉浦日向子「吉良供養」『ゑひもせす』収録
アニメ
「タイムパトロール隊オタスケマン」 - 第49話「アターシャたち全員クビ!」(1981年1月3日放送)でネタになっている。討ち入りを阻止するように歴史を改竄しようとする。