2009年06月20日

ジアステレオマー (Diastereomer) は

ジアステレオマー (Diastereomer) は化学物質の異性体のひとつ。立体異性体のうち、鏡像異性体(エナンチオマー)でないものをいう[1]。幾何異性体(シス-トランス異性体)もジアステレオマーに含まれる。偏左右異性体という訳語が稀に用いられる。

化合物 A が化合物 B のジアステレオマーである場合、A と B の分子式や化学結合の様式は等しいが、平行移動や回転操作を施してもぴったりと重ね合わせることはできない。また、A の鏡像も B とは重ならない。
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一般に、複数のキラル中心がある化合物はジアステレオマーを持つ。例えば、酒石酸には 2 つの不斉炭素があり、それぞれ R/S の 2 種類の立体配置を取りうるため、分子全体では RR・RS・SR・SS の 4 つの立体配置をとる。このうち、RS と SR は重ね合わせることができる完全に等価な化合物である(メソ化合物)。したがって、酒石酸には合計 3 つの立体異性体がある。このうち、RR と SS は互いに鏡像であるエナンチオマーの関係にあり、RR と RS および SS と RS はそれぞれジアステレオマーの関係にある。

性質 [編集]
エナンチオマー同士は旋光性以外の物理的性質が等しいため、キラルカラムを用いたクロマトグラフィーや、酵素や不斉触媒を用いた化学反応など、元々キラリティーを有する物質を作用させる手法でなければ分離することができない。一方、ジアステレオマー同士は沸点・溶解度・極性などが互いに異なるため、蒸留や再結晶など、キラリティーのない(アキラルな)方法でも分離が可能である。この性質を利用して、アミノ酸や糖の誘導体など天然から容易に得られるキラル化合物を分離したいラセミ体に結合させ、ジアステレオマーとしてから分離する光学分割が広く行われている。

エリトロとトレオ [編集]
ジアステレオマーを区別するときに用いられる接頭辞にエリトロ (erythro) とトレオ (threo) がある[2]。フィッシャー投影式を用いてジアステレオマーを表す時、エリトロ型は同じ側に 2 つの同一の置換基を持つ。これに対し、トレオ型は両側に 1 つずつ同一の置換基を持つ。この呼び方はエリトロースとトレオースに由来する。

2009年06月02日

ドライゼ銃

ドライゼ銃(どらいぜじゅう)はDreyse ZündnadelgewehrまたはPrussian Model 1841の名称で1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃である。

この銃はプロイセンの銃工であったヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼによって発明された。開発は1824年に始まり、数多くの試作を経て1836年に完成した。この功績により、ドライゼは1864年に爵位を与えられている。
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先進的すぎる存在だったため開発当初はほとんど注目されなかったが、1860年代のプロイセンが拡張に転じた事によって、幾多の戦場でプロイセン軍を勝利に導く原動力となり、その名声を全世界に轟かせた。

ドライゼ銃は長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる撃発機構と弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式、旧日本軍の公文書にはドイツ語のZündnadelgewehreの発音から“普式ツンナール銃”と記されている。

ドライゼ銃の先進性は前装銃が主流だった当時の他のどんな銃器と比べても飛び抜けたオーパーツ的な存在であり、これを装備して躍進したプロイセン軍は、先進的な軍事技術を有した軍が優位に立つ典型的な例のひとつだったと言える。

この銃は射手が地面に伏せた姿勢で敵の弾丸を避けながら、一体化した薬莢で簡単に再装填を行って、射撃姿勢を維持しながら前装銃とは桁違いの速度で持続射撃を続ける事を可能とし、その普及は太古から一貫して“立って歩く”存在だった歩兵の運用を、戦場で“匍匐前進”する存在へと変化させてしまった。

この新兵器は1848年からプロイセン軍で徐々に配備が始まり、1849年にドレスデンで発生した5月暴動の市街戦において初めてプロイセン軍によって実戦使用されたが、1848年のベルリン暴動で武器庫から多数が盗難されてしまったため、その機密が維持されていた時期は短かった。

プロイセンの台頭と共に、プロイセンと同盟した他のドイツ各州にも普及していったが、保守的だった多くの欧州諸国の陸軍は、ドライゼ銃の紙製薬莢にも後装式の優位性にほとんど理解を示さず、1860年代にプロシアが対外膨張へ転じるまでの長い期間、ドライゼ銃は過小評価され続けていた。

プロイセン以外では唯一、後装式小銃への換装を進めていた英国以外の欧州諸国は、1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によって、ドライゼ銃の存在によりプロイセンの連合軍が驚異的な戦力に変化している事を知った。

2009年04月30日

作られた王統

子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって箕子朝鮮の王統なるものも創作され、その内容は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。ここでは後者を参考に一覧(カッコ内は諱)を示したが、何れにせよ後世の附会であることはいうまでもない。

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文聖王(胥余)紀元前1122年 - 紀元前1082年
荘恵王(松)  紀元前1082年 - 紀元前1057年
敬孝王(詢)  紀元前1057年 - 紀元前1030年
恭貞王(伯)  紀元前1030年 - 紀元前1000年
文武王(椿)  紀元前1000年 - 紀元前972年
太原王(礼)  紀元前972年 - 紀元前968年
景昌王(荘)  紀元前968年 - 紀元前957年
興平王(捉)  紀元前957年 - 紀元前943年
哲威王(調)  紀元前943年 - 紀元前925年
宣恵王(索)  紀元前925年 - 紀元前896年
誼襄王(師)  紀元前896年 - 紀元前843年
文恵王(炎)  紀元前843年 - 紀元前793年
盛徳王(越)  紀元前793年 - 紀元前778年
悼懐王(職)  紀元前778年 - 紀元前776年
文烈王(優)  紀元前776年 - 紀元前761年
昌国王(睦)  紀元前761年 - 紀元前748年
武成王(平)  紀元前748年 - 紀元前722年
貞敬王(闕)  紀元前722年 - 紀元前703年
楽成王(懐)  紀元前703年 - 紀元前675年
孝宗王(存)  紀元前675年 - 紀元前658年
天老王(孝)  紀元前658年 - 紀元前634年
修道王(立)  紀元前634年 - 紀元前615年
徽襄王(通)  紀元前615年 - 紀元前594年
奉日王(参)  紀元前594年 - 紀元前578年
徳昌王(僅)  紀元前578年 - 紀元前560年
寿聖王(翔)  紀元前560年 - 紀元前519年
英傑王(藜)  紀元前519年 - 紀元前503年
逸民王(岡)  紀元前503年 - 紀元前486年
済世王(混)  紀元前486年 - 紀元前465年
清国王(璧)  紀元前465年 - 紀元前432年
導国王(澄)  紀元前432年 - 紀元前413年
赫聖王()  紀元前413年 - 紀元前385年
和羅王(謂)  紀元前385年 - 紀元前369年
説文王(賀)  紀元前369年 - 紀元前361年
慶順王(華)  紀元前361年 - 紀元前342年
嘉徳王(詡)  紀元前342年 - 紀元前315年
三老王(煜)  紀元前315年 - 紀元前290年
顕文王(釈)  紀元前290年 - 紀元前251年
章平王(潤)  紀元前251年 - 紀元前232年
宗統王(丕)  紀元前232年 - 紀元前220年
哀  王(準)  紀元前220年 - 紀元前194年

2009年04月15日

半島戦争

半島戦争(はんとうせんそう、1808年 - 1814年)(英:Peninsular War(半島戦争)、西:Guerra de la Independencia Española(スペイン独立戦争)、葡:Guerra Peninsular(半島戦争)、仏:Guerre d'Espagne(スペイン戦争)カタルーニャ語:Guerra del Francès(フランス戦争))はナポレオン戦争中イベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍が共にフランス帝国軍に対して戦った大戦争である。日本ではスペイン独立戦争(上記スペイン語参照)として知られている。この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはウェリントン公に率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである。

戦争は、イベリア半島の性質に大きく左右された。土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りないため、フランス軍はピーク時で3万を数えたものの、軍を集結させることができなかった。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めた。

この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代のさきがけになった。また、この戦争をきっかけにしてポルトガル、スペインの植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きた。

大陸封鎖令 [編集]
1806年にナポレオン1世は、大陸諸国から英国への輸入を禁じる、大陸封鎖令をベルリンで宣言した。中立を維持する2つの国(スウェーデンとポルトガル)は、ナポレオンの通牒をむなしく拒もうとした。1807年のティルジット条約の後、スウェーデンはロシア帝国と戦うことになり、その時には東方に憂いはなくなり、ナポレオンはイベリア半島の港の攻略を決定した。1807年11月、大陸同盟参加に摂政ジョアン王子(後のジョアン6世)が難色をしめしたのを受けて、ポルトガル侵略の任務を帯びたジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の陸軍をスペインに送った。同時に、スペイン首相ゴドイがナポレオンの委任を受けて、デュポン将軍をカディス方面に送り、スールト将軍をコルナ方面に送った。スペインの2個師団は対立するポルトガルを占領しようと、艦隊奪取を目論みフランス軍と合流した。リスボンは、ポルトガル陸軍がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、軍事的抵抗もないまま、12月1日に攻略された。11月29日にポルトガル王妃と摂政と6000人の人々(艦隊の9000人の船員がそれに加わる)が逃亡したことは、ジョアン王子にブラジルを含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオンにとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島の記念碑に「これが私を滅ぼした。(C'est ça qui m'a perdu)」と記されている。

仏・西軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオンは軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領された。スペインでは貴族が政変でカルロス4世を退位させ、代わってフェルナンド王子がフェルナンド7世として即位した。ナポレオンはスペイン王家をバイヨンヌに追放して、5月5日に2人に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与えたのである。傀儡のスペイン議会はこの新王を承認した。ジョゼフ改めスペイン王ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリードの市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こしたのである。しかしこの蜂起はミュラによって粉砕された。

それまでイギリスはヨーロッパ大陸における軍事作戦で中途半端なへまと相次ぐ敗戦で(1809年のワルヒェレン遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍はフランスに対して十分な作戦をできず、イギリスはヨーロッパ大陸からの撤退を余儀なくされてきた。そういうわけで、ポルトガルは対ナポレオン戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。

スペイン軍は、5月19日から21日にかけてのバイレーンの戦いでピエール・デュポン指揮のフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15000人以上の捕虜を得た。6月18日にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに再び事実上の軍事行動を起こす誘惑を掻き立て、初めて王侯貴族でなく人民が「大いなる侵略者」に反乱を起こしたというイギリスの宣伝で、すぐさま珍しい状況をもたらした。

イギリス軍上陸 [編集]
1808年8月にイギリス軍は少将アーサー・ウェルズリー卿指揮のもと、ポルトガルに上陸した。ポルトガルのベルナルディム偵察隊がロワソンを阻止している間にウェルズリーはドラボルドゥ指揮下の軍を8月17日のロリーサの戦いで破った。8月21日に英葡軍はジュノー指揮のフランス軍とヴィメイロの戦いに激戦を交えた。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略で戦線を維持するフランス軍とその同盟軍をはねのけた。勝てたにもかかわらず、ウェルズリーは軍人として若すぎて、ポルトガルに新たに補強された遠征隊を指揮できないとみなされ、ウェルズリーの地位は、ハリー・バラードに替えられてしまった。バラードが死ぬと次はヒュー・ダルリンプルが任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ協定に基づき、1808年8月、ポルトガルからフランス軍が撤退することになった。イギリス軍の司令官は、3万の精鋭を率いるジョン・ムーア卿を残して、シントラ協定調査のために本国への帰還を命じられた。

英葡軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレオン自身がイベリア半島に20万の兵を率いてゆくことになった。イギリス軍はブルゴス市近郊で攻撃(ブルゴスの戦い)したが、まもなく長い退却を強いられ、さらにサアグンの戦い、ベナペンテの戦い、カカベロスの戦いを挟みながら、フランス軍の追撃を受けた。1809年1月にア・コルーニャから撤兵して終わった。ムーアは「コルーニャの戦い」(en)として知られる戦闘中に市街防衛の指揮中に戦死した。僅か2ヶ月余りスペインにいて、ナポレオンは元帥に指揮権を戻し、自身はフランスに帰国した。

3月にスールト元帥は北の回廊地帯を通って2度目のポルトガル侵略に取り掛かった。 始めはミノ川でポルトガルの民兵に撃退されたが、チャベス、ブラガを攻略し、さらに1809年3月29日にポルトを攻略した。しかし、アマランテなどの都市のシルヴェイラの抵抗は、スールト軍をオポルトにて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、この国からの退却かの賭けに打って出た。

その間、ナポレオンの勝利でスペイン軍を壊滅させたが、スペイン人をしてスペインにおけるフランスの敗北に大いに貢献することになるゲリラ戦法を開始させることとなった。ポルトガルではミゲル・ペレイラ・フォルハス「戦争大臣」が英国から送られた資金と兵力で国軍の再建を行っていた。1806年から示されてきた軍制改革が実行された。最初は2万人の常備軍と3万の民兵が召集された。その後、この数は常備軍5万、民兵5万に膨れ上がり、「オルデンナンサス」と義勇軍が加わった。

1809年4月にウェルズリーは英葡軍を指揮すべく、ポルトガルに戻った。イギリス軍をその頃フォルハスと各地域の知事によって組織され、ベレスフォード将軍によりイギリス風の戦闘に合わせて改編されたポルトガルの連隊によって、補強した。これらの新軍は5月10日から11日のグリホの戦いと5月12日のオポルトの戦いでスールト軍を破った。北部の全都市がシルヴェイラによって攻略された。

新占領地が気になるポルトガル軍を離れ、ウェルズリーはグレゴリオ・デ・ラ・クエスタ軍に合流すべく、スペインに進軍した。連合軍は7月27日から翌28日のタラベラ・デ・ラ・レイラの戦いでホセ1世率いる王国軍を撃破した。そこは連合軍が、不安定さを露呈し、すぐさま西方へと撤退することとなった、高い代償を払って勝利をおさめた場所であった。タラベラの戦いの勝利でウェルズリーは子爵に叙された。この年、後にスペイン軍はオカナの戦いとアルバ・デ・トルメスの戦いで、ひどい惨敗を喫した。

スペイン軍との共闘がうまくいかなかったことと新しいフランス軍を怖れるようになり、ウェルズリーはポルトガル防衛を強化する決断を下した。リスボンを防衛するために、彼はネベス・コスタ少佐の計画を採用し、主要道と塹壕と土塁に沿って強力な堡塁線(162)を構築し、トレス・ベドラス線を形成した。

1811年7月にフランス軍はアンドレ・マセナ元帥率いる60,000の軍を以って再侵攻した。戦端はコアの戦いで開かれた。その後マセナは「ポルトガルで最悪の道」を辿った。9月27日のブサコの戦いで、有利な位置にいながら不注意な戦術で敗北を喫したが、英葡軍をトレス・ベドラス線まで撤退させた。10月14日のソブラルの攻撃の後で戦況が膠着状態に陥るほどに城塞は印象的なものだった。チャールズ・オマーンの記述によれば「10月14日濃霧の朝、ソブラルで『ナポレオンの潮』が最高潮に達し、そして引き潮が始まった」。ポルトガル人は前線で焦土作戦の対象となった。フランス軍は補給路の欠如と疾病のためについに撤退を余儀なくされた。

1811年初頭、同盟軍は新たなイギリス軍の到着で再度増強され、攻勢に転じた。フランス軍はカディスの包囲を解いた失策が一因となって3月5日のバロッサの戦いで敗北を喫し、マセナは5月3日から同月5日までのフェンテ・デ・オノーロの戦いが膠着状態に陥ると、ポルトガルから撤退した。マセナは25,000の兵員をポルトガルとの戦闘で失い、オーギュスト・マルモンと交代することになった。スールトはバダホスを威嚇するために南部から移動したが、ウィリアム・ベレスフォード率いる英葡軍とスペイン軍により5月16日アルブエラの戦いで追い返された。この血みどろの戦闘のあと、フランスは退却を余儀なくされた。

戦争は一時休戦し、数では優勢でもフランス軍は優位に立つことはできず、スペインのゲリラ活動による圧力が増していた。フランス軍は350.000を超す兵力がスペイン軍(L'Armée de l'Espagne)にいたが、大半の20万を超す兵力が、実戦部隊よりもフランス軍の補給路防衛に当たって失われた。スペインは自由主義的な「1812年のカディス憲法」の草案作りに取り掛かった。

1812年の新年早々にウェルズリーはスペインへの同盟軍の再編を行い、1月19日にシウダード・ロードリゴの城塞化された町を包囲、攻略し、バダホスを4月6日に高い代償を払った襲撃のあと同様に攻略した。両方の町は軍に略奪された。7月17日、同盟軍はマルモンが進軍してきたのでサラマンカに進駐した。両軍はついに7月22日に遭遇した。サラマンカの戦いではフランスは壊滅的な敗北を喫した。ベレスフォード元帥は重傷を負った。フランス軍が再集結したので、英葡軍はマドリードに8月6日入城し、ポルトガルに撤退する前にブルゴスに進軍した。

フランスの起死回生の望みは、1812年ナポレオンの悲惨なロシア遠征によって打ち砕かれた。対スペイン軍から3万の精鋭をロシア遠征に連れて行き、増援と交代が尽き、フランス軍の優位は、同盟軍が1813年に攻勢に転じたので、次第に維持がしがたくなった。

戦術的な動きとして、ウェルズリーは補給基地をリスボンからサンタンデルに移した。

5月末に英葡軍は北へと転じて、ブルゴスを奪取し、その際、英葡軍はフランス陸軍を側面から包囲し、ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)をサドラ川の谷へと追いやった。6月21日のビトリアの戦いでホセ1世の65,000の軍は、53,000のイギリス軍、27,000のポルトガル軍、19,000のスペイン軍により退路が狭められた。ウェルズリーはフランス軍をサン・セバスティアンから追撃し追い払った。サン・セバスティアンの町は打ち捨てられ、火を放たれた。

同盟軍は退却するフランス軍を追撃し、ピレネー山脈に7月初めに到達した。スールトはフランス軍に命令を与え、反撃を始め、同盟軍の2人の将軍を翻弄しマヤの戦いとロンセスバリェスの戦いで快勝を収めた。だが、英葡軍に厳しく撃退され、勢いを失い、ついに7月28日から30日にかけてのソラウレンの戦いの同盟軍の勝利の後、敵の軍門に下った。

ピレネーの戦いと呼ばれるその週の戦いは、もしかしたらウェリントンにとって最良のものかもしれない。敵との数が拮抗し、ウェリントンは補給路からきわめて遠いところで戦っていたし、フランス軍はその領域を防御していたが、それでも戦争では稀な機動作戦、衝撃、砲火の組み合わせで勝利した。それは戦争の山場であり、このときウェリントンはポルトガル陸軍を「同盟軍の闘鶏」と評した。

10月7日、ウェリントンはドイツでの戦闘再開の報を受け取り、同盟軍は、ビダソア川を渡り、フランスの国境を越えた。

半島戦争はベラ峠、ニーヴルの戦い、バイヨンヌ近くのニーブの戦い(1813年12月10日 - 14日)、オルセの戦い(1814年2月27日) 、トゥールーズの戦い(4月10日)で同盟軍の勝利で行われた。最後の戦いは、ナポレオン流刑後のものである。

ゲリラ戦 [編集]
この戦争中イギリスはポルトガル民兵とスペインゲリラを支援してフランスの大軍を釘付けにした。フランス軍との戦闘でイギリスの正規軍が用いる装備より安上がりだったことでイギリスは支援を行った。このゲリラ戦は歴史上最も成功したパルチザンの一つで、ゲリラの語源になっている。

ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

2009年03月31日

日本相撲協会理事長として

1957年5月に出羽海理事長自殺未遂事件の後に相撲協会理事長に就任し、相撲協会構成員(年寄、行司等)65歳停年制の実施や、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋の再編と法人化などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山・武蔵川らを腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友玉の海梅吉の意見によく耳を傾けた。

年寄時津風として1横綱(鏡里)、3大関(大内山、北葉山、豊山)等数多くの名力士を育成した。弟子の青ノ里の話では1953年にはまだ自ら弟子に稽古をつけていたという。

ちなみに現在でも時津風部屋は、「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名とともに掲げている。北葉山が入門した時、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「“道場”ならそこだよ」と教えられたという。

1960年に相撲協会の財団法人化35周年式典が行なわれた際に理事長として挨拶状を読み上げることになったが当日挨拶状を渡す係だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻った。時津風は秀ノ山が戻るまでの間土俵上で直立不動、当初失笑が洩れていた館内はやがて静まり、そして拍手の渦となった。中には涙をこぼす者もあったという。

1968年12月16日、劇症肝炎にて逝去。享年57(満56歳没)。死の直前に東大病院に入院する際、死に装束を模した白のスーツで向かったという。戒名は霊山院殿法篤日定大居士。

取り口、強さなど [編集]
右手と右目にハンデがあった事もあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、相手を軽々と放り投げた。引退後5年経って小結若瀬川と花相撲で対戦したときも上手投げで勝った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形であった。斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの締めつけが凄まじく強烈な為、ほとんどの相手力士が利き手である右下手の力をその上からかぶさる左上手に完全に殺されてしまい、何もできなくなって最後には上手投げを食らうという。

双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法である。なお、「打っ棄り双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたのだが、当時は通用せず結果的にそのようになってしまっていた。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にし相当の番数をこなしてもなお、息が上がることがなかったという。

非力と称されることもあったが蔵間竜也によると、亡くなる直前ですら座ったまま軽々と銅の火鉢を持ち上げたという。

また、戦時中の国家主義的な雰囲気を背景に敢闘精神が強調された風潮のなか、不敗を続ける双葉は神国日本の象徴として絶賛を受け続け、双葉山の活躍により春秋園事件で落ちた相撲人気が再び盛り返した。

どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)。後述のように双葉自身が無駄な動作を嫌い土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためであるが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。

相撲態度に関しては文句が無かった一方で、土俵入りに関しては男女ノ川同様に腕を廻して拍手を行ったため酷評された事もある。また、後にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。

幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率8割2厘。繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘(取り直し制度導入以降の最高)、優勝12回(年2場所制での最多)、全勝8回(現在に至るまで最多、年6場所制となってから大鵬がタイ記録樹立)、5場所連続全勝(現在に至るまで最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(記録に残っている1757年以降最高)など、不滅の足跡を残した。
こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

その他  [編集]
「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に番付上に誤記されたものである[6]。
現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えた――という話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。
右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。ちなみに、横綱昇進後に喫した23敗は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。右目が見えないことは公表されていなかったが、櫻錦に敗戦したとき、飛び違いという決まり手であったことから、双葉山は目が悪いのではないかという噂が広がった。なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「我々は皆双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」という。
国民的人気を集めた双葉山だったが花柳界においても例外ではなく、新橋や柳橋の芸者連は“双葉関の貞操を守ろう”と「さわらぬ連盟」なるものを作り互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時まだ独身であったことや、その童顔もあって、「童貞横綱」などとも呼ばれたが、栃錦が新弟子の頃、師匠春日野(元栃木山)のつかいで料亭に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんなきれいな人がいるのかと思った」ほどの美女をはべらせていたと証言している。
孫娘(次女)は現在舞台女優の穐吉美羽。
孫娘(長女)は元宝塚歌劇団77期生・双葉美樹(2001年退団)

2009年03月16日

奥の院

奥の院 - 本堂の全貌を見渡すことができる位置に建つ。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置する。ただし本尊は立像でなく坐像である。
成就院 - 境内北方にある、清水寺の本坊。池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常は非公開である。なお、内部での撮影は原則として禁止となっている。
地主神社 - 本堂の北にある、清水寺の鎮守社で縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年(1633年)の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にある狛犬は地主神社のものである。
坂上田村麻呂のゆかりからアテルイとモレを慰霊する石碑(1994年建立)がある。

本尊 [編集]

本堂本尊 [編集]
清水寺本堂本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏である。この像については学術調査が行われたことはなく、写真も公表されていない[3]。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した彫像、画像が日本各地に存在する[4]。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

本堂本尊は、20世紀末以降では以下の機会に開帳された。

2000年3月3日から同年12月3日まで(33年に一度の開帳)
2008年9月1日から11月30日まで(西国三十三所巡礼の中興者とされる花山法皇一千年忌記念の結縁開帳。2009年3月1日から5月31日にも開帳予定)

奥の院本尊 [編集]
奥の院本尊の秘仏千手観音坐像(重要文化財)は、鎌倉時代の作で一木割矧造、像高63.9センチメートル。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に24の小面を乗せ、計27面をもつ特異な形の像である。本面と左右脇面は額に縦の眼を有する三眼とすること、膝前で組み合わせる宝鉢手は親指と人差し指で輪をつくる、阿弥陀如来と同様の印相とすること、光背に観音の三十三応現身を表すことなど、図像的に特異な点が多い。作風には快慶風が強いが、作者を快慶と同定するには至っていない。

本像は2002年に重要文化財に指定され、翌2003年3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。また、2008年8月から11月にかけて奈良国立博物館及び名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所」に出陳された。

2009年03月01日

変形!ヘンケイ!トランスフォーマー

ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

サイバトロン
C-01 総司令官コンボイ/Optimus Prime
トレーラーキャブに変形する、ただしコンテナは付属していない。メッキはフロントグリルに施されている。彩色は全体的に Classics 版より暗めである。ロボットモードの両肩にあった青い塗装はなくなり、そこには代わりにサイバトロンマークが書き加えられた。また部分的に青く塗られていた大腿部も銀一色に変更されている。ところどころにあった黄色いラインは削除された。また、ビークルモードの端の窓も塗装が施された。
C-02 情報員バンブル/Bumblebee
ビークルモードのモチーフはプジョー・206を思わせるデザインに変更されたが、ロボットモードのデザインはG1に近い。武器は持たないが、背中に接続可能なフライトユニットが付属。フライトユニット自体もジェットスキーに変形し、ビークルモードではバンブルと連結させる事が可能。 Classics 版では白いラインが目立っているが、ヘンケイ版では Classics 版より濃い黄色であり、当時のバンブルに近い配色になっている。また、 Classics 版ではあまり塗装されていなかったフライトユニットも黄色系統の色に塗られている。
C-03 指揮官グリムロック/Grimlock
ティラノサウルス型のメカに変形。G1の同名キャラと比べるとスリムな体形になっている。ロボットモード時の胸にはスパーククリスタルを型どったものが付いている。
フィギュア王のエピソードでは、ロボットモードでは古風な侍を思わせる性格に豹変するという設定になっている。本人曰く、ロボットモードでは無茶をやり過ぎてしまうため、あまり好んでロボットモードになりたくないらしい。
ヘンケイ版の特徴であるメッキ処理はビーストモードで首周りと後ろ足の爪になる部分に施されているが、この部位はG1の同名キャラの玩具でもメッキパーツだった。
C-04 諜報員リジェ/Mirage
フォーミュラカーに変形。ロボットモードはG1のリジェとは大幅に異なるデザインとなっている。 Classics 版ではリアウィングに「Witwicky Sparkplugs」とG1のスパイクの父親であるスパークプラグの名前が書かれていたが、ヘンケイ版ではリアウイングはメッキパーツとなり、文字は書かれていない。
C-05 騎士ホットロディマス/Rodimus
G1の同名キャラの玩具と比べると可動、プロポーションともに大幅に向上している。
海外では登録商標の都合で「Hot Rod」の名称が使用できなかった為「Rodimus」の名称となったが、アメコミではこれに先がけて「Rodimus」の名称で新作に再登場を果たしていた。
日本発売品はリアウイングにメッキが施されている他、胸のファイアーパターンがアニメ設定を意識した塗装となっており、サイバトロンマークも追加されている。
ビークルモードのモチーフは旧作の印象を残しつつ童夢-零に似たデザインに変更されている。左腕にはトランスフォーマー ザ・ムービーで使用していた鋸を意識したと思われる「レーザーチェーンソー」なる丸ノコが装備されているが、 Classics 版では武器ではなく「データCOMコミュニケーター」という名称で、設定が異なっている。
また、 Classics 版にあったアタックモードが、日本版では無いものとされている(ただし、変形構造は変わっていないため、日本版でも変形させる事は可能)。
C-06 空中防衛戦士スカイファイアー/Jetfire
戦闘機に変形。IDWコミックのデザインを参考に製作された。
アニメ版の意匠を基本に、旧玩具の基となったVF-1 バルキリー的なエッセンスも意図的に残されている。
VF-1Sを思わせるマスクを取り外す事で、その下にはアニメ版に準拠した顔が現われるギミックを採用。日本で発売されたものは全体的にやや白を強調した塗装に変更されている他、キャノピー部分に白い塗装とサイバトロンのエンブレムおよび赤の横線が追加され、マスクのバイザーが青から赤に変更されており、より旧玩具、アニメ版に似た雰囲気になっている。
またマスクを装着し、全ての武器を装備した形態はバトルアップモードという名前が付けられている。なお、バトルアップモードの彼のマスクは、玩具に付録している漫画ではスタースクリームが作った洗脳装置という設定になっているが、結局欠陥品だった為、すぐに元のサイバトロンとしての心を取り戻し、マスクもそのまま武器として使用する事になった。
C-07 戦士サンストリーカー/Sunstreaker
ランボルギーニ・ガヤルドに似た車体に変形。ルーフを回転させるとそれに合わせて頭部がせり出す、実写映画版玩具にあったオートモーフ機構に近いもの搭載されている。日本版では、色がオレンジに近い黄色になっており、電子推進ブースターと武器にメッキが施されている。
C-08 戦略家プロール/Prowl
日産・フェアレディZに似たパトカーに変形。ヘンケイ版では銃とロボットモード時の両肩のミサイルランチャー、そしてリアウィングがメッキ仕様になった他、パトライト部分のパーツが日本のパトカーと同じ形のものに変更されている。
C-09 戦士ランボル/Sideswipe
サンストリーカーの仕様変更品。頭部を新造し胴体を前後逆にする事によりサンストリーカーと差別化している。装備の違いも再現され、 Classics 版に付属していたエアインテーク(サンストリーカーと同型)が省略されている。また、ビークルモードのナンバープレートには英語表記でランボル自身の名前(RAMBOL)が書かれており、ヘンケイ版と Classics 版とではそれぞれ書かれている名前が異なっている。なお、メッキが施されている部分はサンストリーカーと同じである。
C-10 射撃手サイバトロンストリーク/Silverstreak
かつてのキャラ名はストリーク。プロールの仕様変更品で、全体の色の変更に加えパトライトが削除され、その部分はサンルーフの様に処理されている。ヘンケイ版は Classics 版では黒かった部分が銀色に変更され、タイヤのホイールは赤から薄い灰色になっており、胸のサイバトロンのエンブレムの大きさも異なる。メッキが施されている部品はプロールと同じ。
C-11 警備員アイアンハイド/Ironhide
G1アイアンハイドのリメイクだが、G1と異なりSUVタイプの車体に変形。ヘンケイ版は武器とライトがメッキ仕様で、G1に近い色に塗り直されている。
C-12 密林巡視員サイバトロンチータス / Cheetor
かつてのキャラ名はチータス。ビーストウォーズ (BW) シリーズからの初のラインナップ。チーターに変身。彩色の変更だけでチーター以外のネコ科の大型獣(虎に変身するタイガトロン、黒豹に変身するシャドーパンサー)にも使いまわされた旧玩具と比べ、ビーストモードの体形のチーターらしさが向上している。ただしBWの劇中や旧玩具では銃を武器としていたが、本シリーズではテールホイップという鞭とチーメランカッターという手裏剣のような武器をもつという設定に変更されている。
Classics 版と比べるとヘンケイ版はBWのアニメでのものに近い彩色になっている。メッキパーツはロボットモードでの頭部とチーメランカッター。
かつてのチータスと同一人物なのかは不明だが、付属漫画では「〜ジャン」「うつべし」というBWのアニメ(日本語版)の中での口癖が見られる(因みに武器のチーメランという名称も、リターンズアニメ版で、彼が武器である剣を投げる際に発していた台詞である)。経緯は明らかになっていないが、サファリパークの動物達とそこに埋蔵されているエネルゴンを守っている。
C-13 偵察員ハウンド / Hound
ジープらしきオフロードカーに変形。企画段階ではミリタリーテイストが強かった。ヘンケイ版ではG1に近いカラーリングになり、バンパー部分がメッキ処理されている。
カセットロンのジャガーが付属。ハウンドの荷台に取り付けられる他、G1サウンドウェーブの玩具に収納できる。旧玩具に付属していたロケットブースターはついていないが後ろ足にそれ似たモールドがある。旧玩具に比べると横幅が増したプロポーションになっている。
C-14 看護員ラチェット/Ratchet
G1同様アイアンハイドの仕様変更品。USVタイプの救急車に変形。色の変更に加え、頭部がG1ラチェットを思わせるものに新造されている。ヘンケイ版ではアイアンハイド同様、G1に近い色に塗り直されている他、プロールと同様にパトランプも変更されている。メッキが施されている部品はアイアンハイドと同じ。
C-15 救助員サイバトロンインフェルノ/Inferno
かつてのキャラ名はインフェルノで、消防車(ポンプ車)に変形。ヘンケイ版では日本の消防車のような濃い赤色で、Classics 版では白かった回転灯が薄い赤色に塗られ、401のマーキングが削除されている。モチーフのビークルは変わったが、胸に運転席がそのまま残るロボットモードのデザインはG1をイメージしており、特に顔の造形は旧玩具に非常に近い。また後頭部にG1時代にあった肩の羽根を思わせるようなディテールが存在している。
メッキパーツは武器のライフルガンとロボットモード時の肩と腕のパネルに使用されているが、G1の玩具も武器にメッキが使われていた。

2009年02月10日

大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付・仙石伯耆守

大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付・仙石伯耆守のもとに出頭させ口上書を提出し、幕府の裁定に委ねることにした。幕府は46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に引き揚げさせて、それから細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の4大名家に預けさせた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。
セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士は熱烈に賞賛した。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か助命かで対応に苦慮した。また、当初は幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいたとされている(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激したとされる幕閣も存在して、その内部でも意見の違いがあった。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日(2月8日)に「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げ。」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出している。

学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げることはできないとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張する。

こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾くが、かつての自分の裁断が過ちだったことを認めてしまうことにもなりかねないので、皇族から出された恩赦という形を得るため、輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁し、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至った。 しかし法親王は「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今、死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる。」と延べ、これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意した。

元禄16年2月4日(3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。遺骸は主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。浪士達は切腹の作法を知らず、前日に教えられた上で切腹したとされている。

赤穂浪士の遺子のうち、出家した者を除き15歳以上の男子は流罪となった。宝永3年1月20日(1706年3月4日)、吉良義周が配流地で死去し、三河吉良家の宗家は絶えた。

宝永6年1月10日(1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し家宣が将軍を継ぐと、恩赦が出され赤穂浪士の遺子たちも放免となった。同年8月、浅野大学は赦免され、500石を拝領して再び旗本となり、寄合に列せられた。正徳3年(1713年)、内蔵助の三男である大三郎は広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた。

逸話や伝承の類
元禄赤穂事件には忠臣蔵への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

脇坂安照が吉良に一矢報いる
殿中刃傷があった直後、播磨国竜野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良上野介とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。

村上喜剣
薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石内蔵助をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良上野介を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるとされる。

大野や奥野は第二陣であった
大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が失敗した時に備えた第二陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県の板谷峠に潜伏していた。しかし大石の討ち入りが成功したという報を聞き、大野は歓喜してその場で自害したとするもの(実際に板谷峠に大野の墓が現存しているが、後世の人間に作られたといわれる)。奥野将監にも同様に第二陣の大将とする逸話があるが、彼にはさらに浅野長矩の隠し子の姫を幕府に知られぬようこっそり育てる役目を大石から命じられていたためやむなく脱盟したという逸話がある。

大高源五の詫び証文の逸話
大高源五が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかしながらこの大高の詫び証文とされているものは後世の人が作ったものと言われている。神崎与五郎にも同様の逸話がある。

岡野金右衛門とお艶の逸話
岡野金右衛門は吉良邸絵図面を手に入れるため、吉良上野介の本所屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘お艶と恋人になる。しかし金右衛門はやがて本当にお艶に本当に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

大高源五と宝井其角
大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人宝井其角とも親交があったため、このような逸話が残る。討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。

赤埴源蔵、徳利の別れ
赤埴源蔵重賢は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる。」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を飲み交わし、帰って行く。その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良上野介の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。

俵星玄蕃
杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。これは文化の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作とされる。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は仮名手本忠臣蔵の主人公大星由良助(大石内蔵助がモデル)の「星」の字。

上杉家の忠臣
討ち入りを聞いた上杉綱憲は実父を助けるため吉良邸への出兵を宣言。しかし江戸家老色部又四郎(または千坂兵部)が上杉の御家を守るために主人の前に立ちふさがり、「殿は吉良家の御当主にならず!上杉家の御当主でございますぞ!」と一喝。綱憲はその迫力に威圧されて出兵を諦めるしかなかった。大佛次郎の小説「赤穂浪士」に上杉家の江戸家老が上杉綱憲を止める場面があることにちなむ。しかし色部は実父の喪に服していてこの日上杉家に出仕しておらず、このようなことはできなかった。実際に綱憲を止めに来たのは家臣ではなく上杉家親族の高家畠山義寧。また討ち入り中ではなく討ち入り後のことである。

色部や千坂ではなく、綱憲の母富子が綱憲を押しとどめるという逸話もある。

南部坂雪の別れ
討ち入り直前、大石内蔵助は南部坂の浅野長矩正室瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。 物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が内蔵助の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合も。

その他
「不忠臣」のその後
赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で(寺坂は士分ではなく足軽身分)、8割以上が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招へいされる一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志片岡源五右衛門から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林杢之助も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父内田三郎右衛門に家を追い出されるなどしている。元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗るほかなかったとされる。

ただし、江戸時代に同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切った意趣返しをしたのは本件だけであり、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったとして倫理的な批判が向けられたわけではない。

刃傷事件の原因
浅野内匠頭の「この間の遺恨覚えたか」という発言に関しては、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』に内匠頭が「遺恨あり」と証言していることが記されている。いずれの書物も内匠頭が遺恨を主張していることについては触れているが、刃傷の原因となった「遺恨」の細かい内容については記していない。

『忠臣蔵』などの芝居に由来する通説では、院使饗応役の伊達左京亮が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良上野介へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野内匠頭は鰹節2本しか贈らなかったために賄賂好き(後述の様に、現在の賄賂とは意味合いが異なる)な吉良上野介の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野内匠頭に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。しかし内匠頭は17年前の天和3年(1683年)にも同じ勅使饗応役に就任している。

また進物や賄賂についても、公費の予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった。広大な領地と莫大な石高をもつ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮旗本に過ぎないので、わずかな領地と石高しかもっていない。吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野内匠頭の収入に及ぶべくもない。高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料や必要経費の性格が強く、当時は別に卑しまれている類のものではなかった。

浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出する塩の製法と販路の問題で対立があったという説があった。これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆『吉良の塩』の中で唱えていたものである。しかし、実際には吉良上野の領地にあったとされる塩田の遺跡は大河内家の領土であった。塩による遺恨説は、飛び地の領土に気付かずに吉良の領土に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。

両者の性格に原因を求める説もある。浅野内匠頭については痞(つかえ)という、今で言う心療内科的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかとも言われている。史実だけを見ると、浅野内匠頭は、47士の1人千馬三郎兵衛を閉門処分にしており、重臣近藤正憲も組頭から解任している。また47士の1人不破数右衛門も藩から追放している。このうち千馬は直言癖があり、不破は人を斬って、それぞれ内匠頭を激怒させたといわれている。

吉良上野介は、亀井隠岐守茲親を苛めたという逸話が津和野に残っており、嫌がらせが常習的だったとも言われる。大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説を採っており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をして、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。また史実を見ると、吉良上野介は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。破綻寸前となった上杉家を上杉鷹山が立て直すエピソードが有名だが、そこまで上杉家を傾けたのは上野介とも言われている。

しかし、実際には関ヶ原の役に際して徳川家康に敵対し、米沢藩50万石余りに減封されるものの、120万石を領有していた当時の藩士を解雇しなかった為、収支に対し人件費だけでも倍の出費を強いられ、また体面を保つ為の出費も著しかったなど、一概に上野介のみを非難する向きも疑問があり、仮名手本忠臣蔵を盾に、自藩の失策を弁明しているとも受け取る事が出来る。

吉良上野介が浅野内匠頭に美しい小姓を譲ってくれるよう懇望したが、断られたため恨みをいだいたという男色(衆道)遺恨説も、幾つかの文献に記されている。

学術的にはほとんど取り上げられていないものの、陰謀史観の一つとして、本来は吉良上野介の側を陥れるはずだった陰謀に浅野内匠頭が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした御台所鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説もある。

東京大学総合図書館蔵、南葵文庫の『梶川日記』によれば、刃傷のときに浅野が「この間の遺恨覚えたか」などと叫んだ事実はなく、ただわめきながらいきなり斬り付けたとなっている。しかし、上野介の傷を治療した栗崎道有という医者が、当時の内匠頭について「乱心にあらず」と記録している。

内蔵助の意図
内蔵助がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の内蔵助の実筆の手紙(お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙)に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。

幕府裁定の正当性
本件に関する幕府の裁定は浅野の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良は抜刀はしていないので理由の如何を問わず無罪となる。主君である浅野内匠頭だけが切腹となり、吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと言われており、確かに江戸前期の刃傷事件には喧嘩両成敗の“判例”がいくつかある。

元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。喧嘩両成敗により猶村は切腹改易、鈴木と木造も改易となった。
寛永5年(1628年):目付豊島刑部少輔明重が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した豊島事件
貞享元年(1684年):若年寄稲葉石見守正休が、本丸で大老堀田筑前守正俊を殺害し、正休もその場で殺害された事件。
江戸城外でも刃傷事件が発生している。

慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼(遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。久米と松平はその場で斬られて死んだ。喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、服部も捕らえられて切腹改易となった。また直接は関係ない水野も切腹となった。原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。
延宝8年(1680年)6月26日、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長に対して刃傷に及んだ。内藤は切腹改易。永井は即死した。永井家も改易に処されたが、これは喧嘩両成敗ではなく無嗣のためであった。
徳川家光の時代から徳川綱吉の時代まで長く刃傷事件がなく、また綱吉時代に起こった殿中刃傷にしても、被害者がその場で殺害されており、ただ加害者を切腹させればよいだけで、被害者も加害者も生き残った例が長く存在しなかった。

「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であり、かぶき者が好んだ法であった。戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠はこれを幕法として採用したが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世である。戦国時代の残滓が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあったという。

江戸幕府は身分制社会であり、法や捜査は決して近代的でないし平等でもない。「喧嘩両成敗」の概念は要するに捜査の価値もない禄高の低い軽輩者の喧嘩をおさめ、捜査の手間暇を省くために適用されることが多かった。大名身分に喧嘩両成敗の適用は伊達美作守村和の事例ぐらいしかない。

後世にひとつだけ浅野と吉良の事件に似た刃傷事件が発生している。徳川吉宗の時代の享保10年7月28日(1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件である。水野忠恒(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野を秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われる。

後世の顕彰
1868年(明治元年11月)、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する勅語を贈った。これは江戸庶民に親しまれていた大石を顕彰することで、新政府への共感を得る効果があった。

創作物
忠臣蔵十一段目夜討之図。(江戸後期 歌川国芳)
浪士を描いた浮世絵。(江戸後期、歌川国芳)事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。劇化の詳細については、忠臣蔵を参照のこと。

小説
芥川龍之介『或日の大石内蔵助』 (1921年)ISBN 4000919725
大佛次郎『赤穂浪士』(1927年)ISBN 4829110228
池宮彰一郎
四十七人の刺客(1992年)上巻;ISBN 4043687036,下巻;ISBN 4043687044
その日の吉良上野介(1996年)ISBN 4043687052
最後の忠臣蔵 ISBN 4043687109(『四十七人目の浪士』(1997年)ISBN 4101408130 改題)
井沢元彦『元禄十五年の反逆』(1988年) ISBN 4106027054,文庫版(1992年) ISBN 410119212X
小林信彦『裏表忠臣蔵』(1988年)ISBN 4103318139,新潮文庫版(1992年) ISBN 4101158231,文春文庫版(1998年) ISBN 416725607X
宮部みゆき 『震える岩―霊験お初捕物控』
評論
丸谷才一 『忠臣蔵とは何か』(1984年)ISBN 406196013X (忠臣蔵のみならず、事件の本質にも言及)
野口武彦 『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書 1994年 ちくま学芸文庫 2007年)
尾崎秀樹編 『徹底検証「忠臣蔵」の謎』(講談社文庫 1998年)
漫画
杉浦日向子「吉良供養」『ゑひもせす』収録
アニメ
「タイムパトロール隊オタスケマン」 - 第49話「アターシャたち全員クビ!」(1981年1月3日放送)でネタになっている。討ち入りを阻止するように歴史を改竄しようとする。

2009年01月24日

Xbox 360(エックスボックス サンロクマル)


おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス
Xbox 360(エックスボックス サンロクマル、Xbox Three Sixty)は、マイクロソフトが2005年に発売したコンシューマ用ビデオゲーム機。日本のユーザーからの略称は360(サンロクマル)、箱○(はこまる)。

Xbox 360は、Xboxの次世代機種で、開発コード名はXenon[3]。ハイビジョン映像に正式対応し、1080i (D3)、720p (D4)、1080p (D5)で出力可能。Xbox 360という正式名称が発表される前には、仮称としてXbox Next[3]、Xbox 2[4]があった。名称の「360」は360度全方向のエンターテインメント体験を意味するとされる。北米では2005年11月22日、欧州では12月2日、日本では12月10日に発売。

欧米では、スタンダードモデルに加えエントリーモデルのコアシステムが同時発売された。日本ではスタンダードモデルのみが発売、コアシステムはスタンダードモデル発売から約1年後の2006年11月2日に発売。エントリーモデルは後にメモリーユニットと数本のゲームソフトを同梱したXbox 360 アーケードにシフト、アメリカでは2007年11月18日に発売、日本でも2008年3月6日に発売された[5]。

2007年3月28日にはHDMI端子と120GBのハードディスクを搭載した上位モデルXbox 360 Eliteが発表され[6]、アメリカでは同年4月29日に、日本では2007年10月11日[7]に発売された。Eliteはスタンダードモデルやコアシステムと異なり、本体やコントローラーが黒色を基調とする。

仕様
CPUはマイクロソフトとIBMが共同開発した対称型マルチコアプロセッサ PXを採用。グラフィックチップはATIと共同設計したカスタム仕様のGPU Xenosを搭載。ストレージには着脱可能なハードディスクを搭載(「コアシステム」ではオプション扱い)。ゲーム開発環境も配布されており、アルファ版の動作環境はPowerPC 970FXを2つを搭載したPowerMac G5にATI Radeon X850 XT(初期は9800 Pro)。

販売する地域のレイティング基準に応じた年齢制限機能を搭載。起動できるゲームやXbox Liveの利用を保護者が制限できる。

ワイヤレスコントローラーを標準装備。追加コントローラーとしては無線版と有線版があり、合計4台まで接続可能。有線版の接続端子は一般のUSBポート。イーサネット接続端子を標準装備、ブロードバンド接続でXbox Liveに接続可能。

PCとの連携
Windows XP Media Center EditionやXP SP2搭載PC内の画像・映像・音声ファイルが再生でき、映像再生はWMV形式を、MCE環境ではMPEG形式もサポート。PCをホームサーバとして、Xbox 360をそのクライアントとする形態である。

コントローラーはUSB接続であり、一部制限はあるがWindows XPとVistaのPCでも使用可能。有線コントローラ用のデバイスドライバはマイクロソフトのサイトでダウンロードでき[8]。無線コントローラーについても、受信機であるワイヤレスゲームアダプターが2007年5月24日に日本でも発売され、ワイヤレスヘッドセットやワイヤレスレーシングホイールとともに利用が可能に。この他Xbox LiveビジョンカメラもWindows Live Messenger等で使うWebカメラとして利用可能。

また、有線コントローラのデバイスドライバを個人で作った者もおり[9]、Windows 98やMe等でも使用可能。


後方互換性
Xbox 360では、Xboxに対応したソフトの一部をプレイすることが可能となっているが、両者にはアーキテクチャの互換性が無く、ソフト個別に対応したエミュレーターソフトをハードディスクにインストールする必要がある。

エミュレーターソフトはXbox Liveより自動的にダウンロードおよびインストールされる。接続していない場合は、パソコンでダウンロードしてCD-R等に保存するか、郵送でエミュレーターソフトを取り寄せる必要がある。

2007年11月28日現在、Xbox 360での動作に対応しているXboxソフトは日本では122本ある。売り上げが高かったタイトルを中心に対応作業を進めている一方、マイナーなタイトルでもメジャータイトルの対応作業の結果対応するようになったケースもある[10]。

Xbox 360 でプレイ可能な初代 Xbox タイトル一覧 - 日本、タイトルごとの制限事項もあり
Xbox 360 でプレイ可能な初代 Xbox タイトル一覧 - 海外、リージョンプロテクトされていないタイトルは国内版の本体で動作可能

CPU
IBM PowerPCカスタム 3.2GHz[11](コードネーム「PX」)
対称型3コア
各コアごと2ハードウェアスレッド(合計6スレッド)
命令実行はインオーダ式(アウト・オブ・オーダー実行には非対応)
各コアごとにレジスタがGPR(汎用レジスタ)とFPR(浮動小数点演算レジスタ)ともに64本
バイエンディアン(エミュレーションのため)
各コアごとにVMX-128 ベクトルユニット(合計3つ)
ハードウェアスレッドごと128個のVMX-128レジスタ
L1キャッシュは各コアに64kB、L2キャッシュは1MBで各コアで共有
フロントサイドバス帯域は毎秒21.6GB

GPU
ATIカスタムグラフィックプロセッサ (Xenos) 500MHz
10MB 混載DRAM(毎秒256GBのバンド幅、2GHzバス)
シェーダーパイプラインへの動的割り当て可能な並列48基の浮動小数点演算器
統合型シェーダーアーキテクチャ(世界初)
毎秒5億トライアングルのポリゴン描画能力
MSAA(マルチサンプルアンチエイリアシング)4X使用時に毎秒16Gサンプルのピクセルフィルレート
毎秒480億回のシェーダー演算

メモリ
512MB GDDR3 RAM 700MHz DDR(CPU、GPU共用)
メモリ帯域幅
メモリインターフェースバス: 22.4GB/秒
EDRAM: 256GB/秒
フロントサイドバス: 21.6GB/秒

システム全体の浮動小数点演算性能
1T(テラ)FLOPS[要出典]

オーディオ
マルチチャンネルサラウンド出力
48kHz 16bitオーディオ対応
320チャンネルの音声を同時デコード
256チャンネル以上のオーディオチャンネル

記憶装置
12倍速 DVD-ROM(CD-ROM速度は非公表)
2.5インチ ハードディスク(容量は20GB・60GB・120GB)
2つのメモリーユニットスロット(容量は64MB・256MB・512MB)

デジタルのメディア対応
対応メディア(フォーマット):DVDビデオ、DVD-ROM、DVD-R/RW、DVD+R/RW、音楽CD(CD-DA)、CD-ROM、CD-R、CD-RW、WMA CD、MP3 CD、JPEG Photo CD
対応音楽ファイル(フォーマット):MP3、WMA、AAC(Xbox Liveによるアップデートが必要、保護されていない物のみ)
対応画像ファイル(フォーマット):JPEG
対応動画ファイル(フォーマット):WMV(WMV7、8、9、9AP、VC-1対応)、AVI、DivX、MPEG4 Part2(WMV以外のフォーマットの再生についてはXbox Liveによるアップデートが必要)
携帯音楽プレーヤーやデジタル カメラ、Windows XP対応PCに保存されているデータの再生
Xbox 360ハードディスクへの音楽CDの取り込み
全てのゲームで使用可能なカスタム再生リスト
Windows Media Center Extender 機能内蔵
音楽再生時の3D視覚エフェクト

その他
4ワイヤレスコントローラ
3つのUSB2.0ポート(前面×2、背面×1)
イーサネット接続端子 (RJ-45)
縦置き、横置き可能
外形寸法:309×258×83 mm
重量:約3.5kg
データのキャッシュ機能
長い期間ゲームをしているとキャッシュが溜まる。キャッシュは自動削除されないため、処理落ち・コマ落ち等が目立ってきたら、ストレージ機器のクリーンアップを要する。キャッシュ削除には2種類の方法があり、キャッシュのみクリアする物[12]と保存されている全てのタイトルアップデートもクリアする物[13]がある。
希望小売価格は日本では39,795円(税込)で、2007年11月1日に34,800円(税込)に値下げされた[14]。アメリカでの価格は399.99$(後に349.99$に値下げされた[15])。

日本でのパッケージ内容は以下の通り。

Xbox 360 本体
ハードディスク (20GB)
ワイヤレスコントローラー(1個)
メディアリモコン
D端子 HD AVケーブル
LANケーブル
ACアダプタ
取り扱い説明書
単三乾電池 4本(ワイヤレスコントローラとメディアリモコン用)
日本以外では映像出力用のケーブルがコンポーネント HD AVケーブルとなっている。また欧米ではメディアリモコンとそれ用の乾電池2本は初回出荷分にしか同梱されなかった一方、それらの地域では初回出荷分以外でもヘッドセットが含まれている(オーストラリアやメキシコ等、日本と同様に「ヘッドセットなし、初回出荷分以外でもメディアリモコン同梱」という地域もある)。


HDMI搭載スタンダードモデル
アメリカでは2007年8月頃より、Premium System(スタンダードモデル)のHDMI端子搭載のスタンダードモデルの出荷が始まっている[16]。Eliteとの差はHDDの容量と本体等の色だけである。

日本でも「Xbox 360バリューパック」(2007年11月1日発売)[14]や「Xbox 360 デビルメイクライ4 プレミアムパック」(2008年1月31日)[17]に関してはHDMI端子搭載を公式に発表しており、バリューパック終了後のスタンダードモデル本体もHDMI搭載型になっている。

なお、将来的にスタンダードモデルの内部がHDMI端子搭載などエリートの物になることはエリートの発売前から予定されていた[18]。

2008年9月11日からはHDDの容量を60GBに増やしたスタンダードモデルを29,800円(税抜 28,381円)で発売[19]。現行の20GBモデルはオープン価格に改定し、在庫が無くなり次第販売終了となる。

2009年01月17日

十二国記

『十二国記』(じゅうにこくき)は、小野不由美の一連の小説作品群の呼称である。古代中国思想を基盤にした異世界ファンタジー作品。2009年時点で未完。

文庫本の売り上げはシリーズ累計700万部に迫るほどである。また、2002年にNHKでテレビアニメ化されている。作品中の君主の呼称に由来して、作者を「主上(しゅじょう)」と呼ぶ熱心なファンもいる。

2001年7月以降シリーズ新作は久しく発表されていなかったが、『yom yom vol.6』(2008年2月27日発売)にて、約6年半ぶりとなる新作、十二国記シリーズ番外編「丕緒(ひしょ)の鳥」(90枚)が掲載された。
十二国記の舞台となるのは、山海経に登場するような神仙や妖魔の存在する世界である。その名のとおり、12の国が存在する。文化、政治形態は古代中国(特に周王朝)に類似しており、絶対的な王制である。しかし世襲制ではなく、12の国はそれぞれ神獣麒麟(きりん)が天意に従って選んだ王により統治されている。王は諸侯を封じ、政治をさせる。王や一部の高位の官は神仙として不老長寿(だが必ずしも不死ではなく、胴や首を冬器により断たれれば死んでしまう)の身体を得て、天意に従う形で国を治めることを求められている。麒麟が失道にかかりそのまま死・禅譲するか、誰かに討たれない限り王は死なない。王とそれを選ぶ麒麟、そして天意とは何なのかという問いが、作品全体の主題となっている。

さらに、サイドストーリーとして最初に執筆された『魔性の子』では、この異世界が我々の暮らす現実世界に干渉したときの恐怖がホラー小説として描かれており、甘い異世界幻想に収まらない世界観を提示している。

シリーズ共通の主人公は存在しないが、各作品の登場人物は時代を超えて関係し合っており、ある作品の主人公が他の作品に脇役で登場することもしばしばある。以下に作品別の主人公と、脇役で登場した他作品の主人公を示す。なお、名前のみの登場は記載していない。

『魔性の子』:広瀬 … 蒿里が登場
『月の影 影の海』:景王 陽子 … 尚隆、六太が登場
『風の海 迷宮の岸』:泰麒 蒿里 … 尚隆、六太が登場
『東の海神 西の滄海』:延王 尚隆、延麒 六太
『風の万里 黎明の空』:景王 陽子 … 尚隆、六太、珠晶が登場
『図南の翼』:供王 珠晶
『黄昏の岸 暁の天』:李斎 … 蒿里、陽子、尚隆、六太が登場
『華胥の幽夢』
『冬栄』:泰麒 蒿里
『乗月』:月渓
『書簡』:景王 陽子
『華胥』:朱夏
『帰山』:利広 … 尚隆が登場
『丕緒の鳥』:丕緒 … 陽子が登場
ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ

あらすじ
外伝作品である『魔性の子』については、魔性の子を参照。

月の影 影の海
日本で生まれ育った普通の女子高生・中嶋陽子の前に、突如「ケイキ」と名乗る異装の男が現れる。ケイキは陽子を主と呼んで跪き、一方的に謎の盟約を迫る。突然の出来事に戸惑う陽子を異形の獣が襲撃、それを辛くも退けたケイキは、強引に陽子を地図にない世界へと連れ去った。

異形の獣の襲撃はその後も続き、陽子はケイキとはぐれ見知らぬ場所(巧国)にたどり着く。全く事情が判らないまま縋る気持ちで現地の人間に助けを求めるも、“海客”として酷い仕打ちを受けたり、利用されそうになったり、陽子は徐々に人間不信に陥る。人目を避けつつ、なおも襲撃を続ける異形の獣(妖魔)と戦い続ける陽子は満身創痍となり、行き倒れたところを楽俊に救われる。楽俊は陽子を介抱し、さらには海客に対する保護体制が整っている雁国への道案内を買ってでる。道中妖魔と遭遇しそれを退ける陽子であったが、衛士(警備兵)に見つかるという恐怖から、倒れている楽俊を見捨ててしまう。後にそれを後悔する陽子であったが、同時に「口封じに楽俊を殺す」という選択肢を選ばなかった自分に安堵する。楽俊は生きているらしいということを知るも再会はかなわず、陽子は1人雁国を目指す旅を続けるのであった。

雁国へたどり着いた陽子を待っていたのは、楽俊であった。楽俊は先に雁国に渡り、港で働きながら情報を集め、陽子を待っていたのだという。再び2人旅となった陽子たちは、雁国で暮らす海客「壁落人」を訪ね、そこで陽子が胎果であることを知る。同時にケイキとは慶国の麒麟であり、景麒が「主」と呼ぶならば陽子は「景王」であると告げられる。日本に戻るのか、景王になるのかの選択を迫られる陽子であったが、延王の助力を受け、偽王・舒栄を討つことを決意する。

風の海 迷宮の岸
蓬山の捨身木に戴の麒麟の卵果・泰果が実り、母親代わりとなる女怪が生まれ、蓬山は麒麟の誕生を待っていた。しかし、突如襲来した蝕に巻き込まれ、泰果が流されてしまった。

それから10年後、泰麒は延麒によって蓬莱で発見され、廉麟の助けを受け、女怪の白汕子が泰麒を連れ戻すことに成功する。普通の人間として育った泰麒は、最初こそ戸惑うものの、程なく蓬山の生活に慣れ始める。だが、たまたま蓬山に滞在していた景麒から「麒麟は転変する」と知らされ、生まれたときから人間の姿で今も転変できない自分は「麒麟の出来そこない」ではないかと思い悩む。泰麒を泣かせたことで女仙から責められた景麒は、その後泰麒に麒麟の能力や役割を伝授していくが、自然に出来るようになる転変の仕方については教えることが出来なかった。

同じ麒麟として慕った景麒が慶国に戻り、麒麟としての自覚を持てないまま戴国に麒麟旗が掲げられる。泰果失踪により長年王不在が続いていた戴国の民は喜び、昇山者が続々と先を競って蓬山に集ってくる。天啓が何なのか判らないながらも女仙の付き添いで昇山者と対面する泰麒は、騎獣をきっかけとして承州師将軍の李斎と知り合う。また、昇山者同士の喧嘩で出合った禁軍左軍将軍の驍宗には、恐怖に似たものを感じる。その後も度々李斎の下を訪れ、驍宗とも会話を交わすようになり、彼らが蓬山を去る間際には一緒に騎獣狩りに行くほどの仲になっていた。女仙の反対を押し切って同行した騎獣狩りの最中、李斎が見つけた洞窟に入った三人は、泰麒が嫌な胸騒ぎを感じた直後、内部に潜んでいた妖魔に襲撃される。李斎が囚われ、驍宗も弾き飛ばされれ、泰麒は一人で強大な妖魔・饕餮と対峙することとなる。それまで一度も折伏できずにいた泰麒であったが、饕餮を使令に下し、初めて折伏に成功するのであった。

そして驍宗が蓬山を去る日が訪れる。驍宗に感じる感覚に戸惑いながら、離れたくないと思う感情が抑えきれずに走り出す泰麒の姿は、燐光を放って夜を駆け上がっていく漆黒の獣と化していた。