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      <title>ありあり姫の日記</title>
      <link>http://key101.yfjjai.biz/</link>
      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2009</copyright>
      <lastBuildDate>Fri, 11 Dec 2009 01:23:23 +0900</lastBuildDate>
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      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>トルコ軍は良心的兵役拒否を認めない</title>
         <description><![CDATA[トルコ軍は良心的兵役拒否を認めない完全な男性皆兵制を採っており、身体障害がない限り男性には15ヶ月間、ただし、大学卒業者は12ヶ月間の兵役が課され、それぞれ陸軍、海軍、空軍、沿岸警備隊に配属される。定期バスのような公共輸送機関では軍隊によるID検査があり、兵役を逃れている者はそのまま任地に強制連行され、一度、帰宅することも許されない。18歳〜40歳までの男性で国籍を有するIDカード保持者を対象に行われるが、学生は徴兵猶予される。学士課程は29歳まで、修士課程は33歳まで、博士課程は37歳までである。

一般には20歳までに兵役に応じ、最下級の兵士としての訓練と任務に就くことになる。また大学卒業者は、兵卒ではなく予備将校として訓練を受ける。兵役期間中の給与は安く、軍種・兵科・任地により異なるが、2006年現在、20新トルコリラ程度（約1600円）である。これはタバコ8箱程度の価値であり、一般には兵役は無償とみなされている。これに対して職業軍人は「有給軍人」と呼ばれる。以前は「代人料」を払って兵役期間を短くする制度があったが、貧富で格差が出て問題になったため、廃止されている。
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近年、トルコでは良心的兵役拒否に関する議論が活発化している。ヨーロッパ評議会の構成国の中で兵役拒否を認めていないのはトルコとアゼルバイジャンのみである。1987年4月9日に発表された兵役義務への良心的拒否に関するヨーロッパ評議会閣僚委員会の勧告No.R（87）8では、「徴兵制度に服すべき者で、納得できる良心的な理由から武力使用への関わりを拒否する者は、そのような役務に服する義務から解放される権利を有する［…］。そのような者は、代替的な役務に服することがある」としている。

2006年、欧州人権裁判所(ECHR) は Osman Murat Ulke の良心的兵役拒否に関して、トルコ政府が2年6ヶ月の懲役刑を科したことに対して、人権侵害であると認めた。2005年にクルド人であるMehmet Tarhanは兵役拒否の罪で4年間、軍の刑務所に収監されることとなった（しかし、彼は2006年に突然、釈放された）。ジャーナリストのPerihan Magdenはトルコの裁判所に、Tarhanの良心的兵役拒否を認めるように訴えたが、逮捕された。後に彼女は無罪となった。]]></description>
         <link>http://key101.yfjjai.biz/2009/12/post_49.html</link>
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         <pubDate>Fri, 11 Dec 2009 01:23:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤福餅</title>
         <description><![CDATA[赤福餅（あかふくもち）は、三重県伊勢市の和菓子屋赤福の商品。
江戸時代の1707年（宝永4年）に皇大神宮（伊勢神宮内宮）前、五十鈴川のほとりで販売されたものが始まりと言い伝えられている。「赤福」の名は1895年（明治28年）の『神都名勝誌』では、餡を入れた餅を大福と呼ぶ対比として、赤い餡をつけた餅であるから赤福と称したと推察している。1929年（昭和4年）の『宇治山田市史』ではこの説を採用し、その他の説はこじつけであるとしているが、赤福のホームページではまごころ（赤心）をつくすことで素直に他人の幸せを喜ぶことが出来る（慶福）という意味の「赤心慶福」（せきしんけいふく）に由来するとしている。名前の「赤」にちなんで包装も商品名のロゴも赤いが菓子自体の色は小豆色であり赤ではない。

餅を漉し餡でくるんだもので、漉し餡には三つの筋が付き、五十鈴川の川の流れを表しているとされる。餅は傾けて持ち帰ると崩れることがあるほど非常にやわらかい。当初は、砂糖が貴重品であったために塩味の餡であった。1727年、江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗が砂糖の原料となるサトウキビの栽培を奨励し、砂糖の生産高が増えたことから、赤福も次第に黒砂糖餡を使うようになった。
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1911年（明治44年）、昭憲皇太后（明治天皇の皇后）が神宮参拝の折、赤福餅を注文した。赤福は、甘みと灰汁の強い黒砂糖餡では、「皇后陛下のお口に合わないのではないか」と案じ、白砂糖餡の特製品を献上した結果、無事好評を博したという。この結果、一般販売にも白砂糖餡を使うようになり、現行の赤福餅が完成した。赤福では、昭憲皇太后の注文を受けた5月19日を「ほまれの日」と定め、包装紙にも「ほまれの赤福」と称するようになった。しばらくの間は、黒砂糖餡を「赤福」、白砂糖餡を「ほまれの赤福」として販売していたが、その後後者に統一された。なお消費期限及び製造日、原材料表示偽装事件発覚後、営業再開した新パッケージでは、「ほまれの」と言う文字は削除された。

「ええじゃないか」のテレビCMと「赤太郎」というキャラクターで知られ、不祥事発覚までは、中京・近畿圏のJR線主要駅や近鉄沿線の特急停車駅、サービスエリア、百貨店、空港売店などで、広範囲に発売されていた（遠くは岡山県でも販売された）。]]></description>
         <link>http://key101.yfjjai.biz/2009/11/post_48.html</link>
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         <pubDate>Mon, 30 Nov 2009 02:03:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>現代の中国では食人は</title>
         <description><![CDATA[現代の中国では食人はタブーとされており、違法である。堕胎された胎児などを食べる文化が現存するという説があるが、トリック写真やパフォーマンスの一部だと判明した事例も多い。香港やマカオでもしばしば食人事件が噂され、盛んに作品に翻案された。香港映画『八仙飯店之人肉饅頭』はその一例である（実際の八仙飯店殺人事件では、被害者十名の胴体が発見できなかったに留まり、人肉食は立証されていない）。 また2008年には香港でもこの映画を思わせる事件が発生した。少女を殺害し、遺体を切り刻み肉と内臓をミンチ機で細切りにしトイレに破棄し、手足の骨は肉屋の店頭に並べるという猟奇的な殺人も起きている。
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朝鮮半島でも食人文化は見られ、「断指」「割股」という形で統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで続いている。孝行という形以外で直接的に人肉を薬にすることに付いては比較的遅くに見られ、李氏朝鮮の中宗21年の数年前（1520年代）から広まっており、宣祖9年6月（1575年）には生きた人間を殺し生肝を取り出して売りさばいた罪で多数捕縛されたことが『朝鮮王朝実録』に記載されている。また、韓国独立運動家の金九は自身のももの肉を切り、病気の父に食べさせている。この民俗医療の風習は、元々梅毒の治療のために行われたと推察できるが、後にこれらの病に留まらず不治の病全般に行われる様になり、植民地時代の昭和初期に至っても朝鮮・日本の新聞の記事の中にも長患いの夫に自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件やハンセン病を治すために子供を山に連れて行き殺し、生肝を抜くという行為が散見される。ただしこの時代の朝鮮人社会でも、すでにこのような"薬"としての人肉食は前近代的で非科学的な奇習と考えられているようになっており、一般的ではなくなっていた。]]></description>
         <link>http://key101.yfjjai.biz/2009/11/post_47.html</link>
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         <pubDate>Thu, 26 Nov 2009 02:23:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>重金主義</title>
         <description><![CDATA[重金主義（じゅうきんしゅぎ、英語：Bullionism、ブリオニズム）とは、貴金属のみを国富として、その対外取引を規制し流出を防止し、同時に対外征服や略奪、鉱山開発を推し進め、国富たる貴金属を蓄積させようとする政策。取引差額主義とも。16世紀のスペイン、ポルトガルの代表的な政策で、のちフランス王ルイ14世に仕えた財務総監コルベールがとった経済運営（コルベール主義）が有名である。

東洋に向かったポルトガルは王室国家権力による独占貿易をはかりカサ・ダ・インディア(インド庁)を設立した。リスボン到着の香辛料はすべてインド庁の倉庫に納入され転売益が国王収入となった。新大陸に向かったスペインにとっては交易の成立しない異文明との遭遇は掠奪と破壊の対象となった。

貿易差額主義（ぼうえきさがくしゅぎ）とは、輸出を進めて輸入を制限することにより国内産業を保護育成し、貨幣蓄積をはかる政策。重金主義が国家間での金塊等の争奪や私掠船（官許の民間掠奪船）の横行、相互の輸出規制合戦の様相を呈したのに対し、貿易の差額による国富（ここでは貴金属）の蓄積が主張された。
<a href='http://ugpx.iksuzh.com/'>王子のコンピュータ入門</a>
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イギリス東インド会社の係官トマス・マン（19世紀の作家T・マンとは別人）が主張、イギリス重商主義の中心的な政策となる。

重商主義は、アダム・スミスによって『国富論』の中で繰り返し批判されている。そのため、過去の遺物のように考えられがちだが、今日でも貿易問題が論ぜられる際には重商主義的な見方がしばしばなされる。]]></description>
         <link>http://key101.yfjjai.biz/2009/11/post_45.html</link>
         <guid>http://key101.yfjjai.biz/2009/11/post_45.html</guid>
        
        
         <pubDate>Thu, 12 Nov 2009 14:31:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>重金主義</title>
         <description><![CDATA[重金主義（じゅうきんしゅぎ、英語：Bullionism、ブリオニズム）とは、貴金属のみを国富として、その対外取引を規制し流出を防止し、同時に対外征服や略奪、鉱山開発を推し進め、国富たる貴金属を蓄積させようとする政策。取引差額主義とも。16世紀のスペイン、ポルトガルの代表的な政策で、のちフランス王ルイ14世に仕えた財務総監コルベールがとった経済運営（コルベール主義）が有名である。

東洋に向かったポルトガルは王室国家権力による独占貿易をはかりカサ・ダ・インディア(インド庁)を設立した。リスボン到着の香辛料はすべてインド庁の倉庫に納入され転売益が国王収入となった。新大陸に向かったスペインにとっては交易の成立しない異文明との遭遇は掠奪と破壊の対象となった。

貿易差額主義（ぼうえきさがくしゅぎ）とは、輸出を進めて輸入を制限することにより国内産業を保護育成し、貨幣蓄積をはかる政策。重金主義が国家間での金塊等の争奪や私掠船（官許の民間掠奪船）の横行、相互の輸出規制合戦の様相を呈したのに対し、貿易の差額による国富（ここでは貴金属）の蓄積が主張された。
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イギリス東インド会社の係官トマス・マン（19世紀の作家T・マンとは別人）が主張、イギリス重商主義の中心的な政策となる。

重商主義は、アダム・スミスによって『国富論』の中で繰り返し批判されている。そのため、過去の遺物のように考えられがちだが、今日でも貿易問題が論ぜられる際には重商主義的な見方がしばしばなされる。]]></description>
         <link>http://key101.yfjjai.biz/2009/11/post_46.html</link>
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         <pubDate>Thu, 12 Nov 2009 14:31:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>廃倉庫の再利用と不動産業</title>
         <description><![CDATA[この物流高度化の流れに応えられない老朽化した倉庫は、廃業してオフィスビルかマンションか駐車場になる場合が多い。

現に、日本国内の多くの倉庫業者の利益の源泉は、かつて川や運河沿い、古い幹線道路沿いなどに持っていた倉庫を取り壊して作ったオフィスビルやマンション、ショッピングセンター等の経営による不動産賃貸業である。老舗の倉庫業者は、地価の安い時代に買った多くの土地資産（いわゆる含み益）を所有することから、その資産の有効活用の行方をめぐりしばしば株式公開買い付けによる企業買収の対象となる。

欧米では多くの街で、港湾地区や川沿いなどに老朽化して廃墟と化した大型倉庫が大量に打ち捨てられており、景観やセキュリティー（防犯）上の頭の痛い問題となっている。犯罪の温床となるほか、1980年代末にはイギリスなどでしばしば不法占拠された上、レイヴパーティーの会場とされたこともあった。
<a href='http://ggxeye.xeujnp.net/'>蒼真の一刀両断</a>
<a href='http://hayr.kjuipm.net/'>太陽と月</a>
<a href='http://iadhfh.prpmkr.info/'>太郎のデジタルテクノロジー</a>
<a href='http://mxyra.pzndiz.info/'>大悟の千差万別</a>
<a href='http://gyrc.zfdpsd.org/'>大豆の神さま</a>
<a href='http://ikggpk.zkebdh.com/'>拓海の春休み</a>
<a href='http://xzjtkc.yhjnbd.net/'>竹の子ちゃんコンピュータ社会</a>
<a href='http://nnyibi.mmpanm.info/'>朝虹の日記</a>
<a href='http://ubkzd.tmmewj.net/'>天の川</a>
<a href='http://mwaw.wifniw.com/'>天使のしっぽ</a>
<a href='http://nwuspp.bkarfs.org/'>電車男</a>
<a href='http://xrume.nhgzdd.biz/'>冬を待つ季節</a>
<a href='http://nybag.rzbwjy.net/'>桃と花子</a>
<a href='http://drfd.fgjybf.biz/'>透明人間</a>
<a href='http://zdjp.igzxwi.info/'>二十面相</a>
<a href='http://fkgu.imfazt.org/'>日本一の息子</a>
<a href='http://trxg.xwcfpb.info/'>猫の足</a>
<a href='http://cxer.zgipen.info/'>白い秋桜</a>
<a href='http://hxwc.wztkmz.org/'>隼の生活</a>
<a href='http://rnins.czrxah.net/'>美月はおギャル</a>

荒れた旧港湾の再生のため、欧米では廃倉庫群はさまざまに処理されてきた。取り壊されてウォーターフロント地区のビジネスセンターのオフィスビルの敷地となるか、あるいは倉庫の建物そのままで改修（リノベーション）されて美術館・博物館・瀟洒なショッピングセンターとなってウォーターフロント地区に賑わいを生み出すか、ほとんど手を加えない状態で大きなアパート兼アトリエ、ギャラリー、レストラン、クラブに改造され先端的な芸術地区を形成したりすることもある。（今日高級ショッピング街として有名なニューヨークのソーホー地区は、もとは廃業した繊維倉庫などのロフト（上層階、屋根裏部屋）を芸術家がアトリエとして利用し、ギャラリーなど美術関係者が集積したことが発展の端緒である。）
]]></description>
         <link>http://key101.yfjjai.biz/2009/10/post_44.html</link>
         <guid>http://key101.yfjjai.biz/2009/10/post_44.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 31 Oct 2009 02:44:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title> 復古的箏曲様式の確立</title>
         <description><![CDATA[江戸時代の音楽は中期以降、三味線がリードしてきたが、幕末にはその技巧が発展の極に達してしまい、またそこに複雑に箏が絡み合う「替手」式合奏が発達、楽曲形式としての「手事もの」も完成し、行き着く所まで来たという感があり、それを超える新たな作曲表現が模索されるようになった。このような試みは幕末の音楽作品に色々なかたちで垣間見えるが、中でも、元禄の生田検校以来、三味線に対し従属的な立場にあった箏に再注目することによって、作曲に新たな方向性を見いだしたのが京都の光崎検校であり、「五段砧」「秋風の曲」など箏のみの名曲をも残している。吉沢検校もその影響を受け、古い時代の箏曲である「組歌」や、さらには雅楽家羽塚秋楽に雅楽を学んで研究し、楽箏の調弦にヒントを得た新調弦を考案、「古今組」「新古今組」をはじめとして箏本位の曲を多く作曲した。
<a href='http://hnhm.dgepni.com/'>双子座</a>
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これらは箏曲本来の気品と雅楽的な古雅さを備え、一方で音楽的にはより自由な展開をさせ、近代的ともいえる印象的描写性もみられ、よく独自のスタイルを確立している。維新後には全国的に広く知られるようになり、特に「千鳥の曲」と同様の様式の曲が大阪を中心に各地で作られることとなった。「明治新曲」と呼ばれる曲群がそうである。また、例えば「千鳥の曲」に見られる海辺の描写的表現は、後世の「春の海」を予見させるものがある。つまり吉沢の箏作品(光崎検校の箏作品も含め)は「千鳥の曲」を一つの転換点として、明治以降の日本音楽の流れを方向づけることになったということもできるであろう。ただし作曲が進むに従い、晩期の作品では簡潔美の追求が進み、流麗さすら排除されて一般受けしづらくなる傾向にある。これは多分に人の世の煩瑣や最幕末の不安定な世相を厭う、芸術家としての孤高の精神の発露ゆえなのであろう。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 20 Oct 2009 02:28:28 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>ジアステレオマー (Diastereomer) は</title>
         <description><![CDATA[ジアステレオマー (Diastereomer) は化学物質の異性体のひとつ。立体異性体のうち、鏡像異性体（エナンチオマー）でないものをいう[1]。幾何異性体（シス-トランス異性体）もジアステレオマーに含まれる。偏左右異性体という訳語が稀に用いられる。

化合物 A が化合物 B のジアステレオマーである場合、A と B の分子式や化学結合の様式は等しいが、平行移動や回転操作を施してもぴったりと重ね合わせることはできない。また、A の鏡像も B とは重ならない。
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一般に、複数のキラル中心がある化合物はジアステレオマーを持つ。例えば、酒石酸には 2 つの不斉炭素があり、それぞれ R/S の 2 種類の立体配置を取りうるため、分子全体では RR・RS・SR・SS の 4 つの立体配置をとる。このうち、RS と SR は重ね合わせることができる完全に等価な化合物である（メソ化合物）。したがって、酒石酸には合計 3 つの立体異性体がある。このうち、RR と SS は互いに鏡像であるエナンチオマーの関係にあり、RR と RS および SS と RS はそれぞれジアステレオマーの関係にある。

 性質 [編集]
エナンチオマー同士は旋光性以外の物理的性質が等しいため、キラルカラムを用いたクロマトグラフィーや、酵素や不斉触媒を用いた化学反応など、元々キラリティーを有する物質を作用させる手法でなければ分離することができない。一方、ジアステレオマー同士は沸点・溶解度・極性などが互いに異なるため、蒸留や再結晶など、キラリティーのない（アキラルな）方法でも分離が可能である。この性質を利用して、アミノ酸や糖の誘導体など天然から容易に得られるキラル化合物を分離したいラセミ体に結合させ、ジアステレオマーとしてから分離する光学分割が広く行われている。

 エリトロとトレオ [編集]
ジアステレオマーを区別するときに用いられる接頭辞にエリトロ (erythro) とトレオ (threo) がある[2]。フィッシャー投影式を用いてジアステレオマーを表す時、エリトロ型は同じ側に 2 つの同一の置換基を持つ。これに対し、トレオ型は両側に 1 つずつ同一の置換基を持つ。この呼び方はエリトロースとトレオースに由来する。

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         <pubDate>Sat, 20 Jun 2009 08:00:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ドライゼ銃</title>
         <description><![CDATA[ドライゼ銃（どらいぜじゅう）はDreyse ZündnadelgewehrまたはPrussian Model 1841の名称で1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃である。

この銃はプロイセンの銃工であったヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼによって発明された。開発は1824年に始まり、数多くの試作を経て1836年に完成した。この功績により、ドライゼは1864年に爵位を与えられている。
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先進的すぎる存在だったため開発当初はほとんど注目されなかったが、1860年代のプロイセンが拡張に転じた事によって、幾多の戦場でプロイセン軍を勝利に導く原動力となり、その名声を全世界に轟かせた。

ドライゼ銃は長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる撃発機構と弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式、旧日本軍の公文書にはドイツ語のZündnadelgewehreの発音から“普式ツンナール銃”と記されている。

ドライゼ銃の先進性は前装銃が主流だった当時の他のどんな銃器と比べても飛び抜けたオーパーツ的な存在であり、これを装備して躍進したプロイセン軍は、先進的な軍事技術を有した軍が優位に立つ典型的な例のひとつだったと言える。

この銃は射手が地面に伏せた姿勢で敵の弾丸を避けながら、一体化した薬莢で簡単に再装填を行って、射撃姿勢を維持しながら前装銃とは桁違いの速度で持続射撃を続ける事を可能とし、その普及は太古から一貫して“立って歩く”存在だった歩兵の運用を、戦場で“匍匐前進”する存在へと変化させてしまった。

この新兵器は1848年からプロイセン軍で徐々に配備が始まり、1849年にドレスデンで発生した5月暴動の市街戦において初めてプロイセン軍によって実戦使用されたが、1848年のベルリン暴動で武器庫から多数が盗難されてしまったため、その機密が維持されていた時期は短かった。

プロイセンの台頭と共に、プロイセンと同盟した他のドイツ各州にも普及していったが、保守的だった多くの欧州諸国の陸軍は、ドライゼ銃の紙製薬莢にも後装式の優位性にほとんど理解を示さず、1860年代にプロシアが対外膨張へ転じるまでの長い期間、ドライゼ銃は過小評価され続けていた。

プロイセン以外では唯一、後装式小銃への換装を進めていた英国以外の欧州諸国は、1864年の第二次シュレースヴィヒ＝ホルシュタイン戦争によって、ドライゼ銃の存在によりプロイセンの連合軍が驚異的な戦力に変化している事を知った。

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         <pubDate>Tue, 02 Jun 2009 09:53:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title> 作られた王統</title>
         <description><![CDATA[子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって箕子朝鮮の王統なるものも創作され、その内容は『盎葉記』（李徳懋）や『清州韓氏族譜』などに見える。ここでは後者を参考に一覧（カッコ内は諱）を示したが、何れにせよ後世の附会であることはいうまでもない。

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文聖王（胥余）紀元前1122年 - 紀元前1082年 
荘恵王（松）　 紀元前1082年 - 紀元前1057年 
敬孝王（詢）　 紀元前1057年 - 紀元前1030年 
恭貞王（伯）　 紀元前1030年 - 紀元前1000年 
文武王（椿）　 紀元前1000年 - 紀元前972年 
太原王（礼）　 紀元前972年 - 紀元前968年 
景昌王（荘）　 紀元前968年 - 紀元前957年 
興平王（捉）　 紀元前957年 - 紀元前943年 
哲威王（調）　 紀元前943年 - 紀元前925年 
宣恵王（索）　 紀元前925年 - 紀元前896年 
誼襄王（師）　 紀元前896年 - 紀元前843年 
文恵王（炎）　 紀元前843年 - 紀元前793年 
盛徳王（越）　 紀元前793年 - 紀元前778年 
悼懐王（職）　 紀元前778年 - 紀元前776年 
文烈王（優）　 紀元前776年 - 紀元前761年 
昌国王（睦）　 紀元前761年 - 紀元前748年 
武成王（平）　 紀元前748年 - 紀元前722年 
貞敬王（闕）　 紀元前722年 - 紀元前703年 
楽成王（懐）　 紀元前703年 - 紀元前675年 
孝宗王（存）　 紀元前675年 - 紀元前658年 
天老王（孝）　 紀元前658年 - 紀元前634年 
修道王（立）　 紀元前634年 - 紀元前615年 
徽襄王（通）　 紀元前615年 - 紀元前594年 
奉日王（参）　 紀元前594年 - 紀元前578年 
徳昌王（僅）　 紀元前578年 - 紀元前560年 
寿聖王（翔）　 紀元前560年 - 紀元前519年 
英傑王（藜）　 紀元前519年 - 紀元前503年 
逸民王（岡）　 紀元前503年 - 紀元前486年 
済世王（混）　 紀元前486年 - 紀元前465年 
清国王（璧）　 紀元前465年 - 紀元前432年 
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赫聖王（）　 紀元前413年 - 紀元前385年 
和羅王（謂）　 紀元前385年 - 紀元前369年 
説文王（賀）　 紀元前369年 - 紀元前361年 
慶順王（華）　 紀元前361年 - 紀元前342年 
嘉徳王（詡）　 紀元前342年 - 紀元前315年 
三老王（煜）　 紀元前315年 - 紀元前290年 
顕文王（釈）　 紀元前290年 - 紀元前251年 
章平王（潤）　 紀元前251年 - 紀元前232年 
宗統王（丕）　 紀元前232年 - 紀元前220年 
哀　 王（準）　 紀元前220年 - 紀元前194年 
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         <pubDate>Thu, 30 Apr 2009 09:20:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>半島戦争</title>
         <description><![CDATA[半島戦争（はんとうせんそう、1808年 - 1814年）（英：Peninsular War（半島戦争）、西：Guerra de la Independencia Española（スペイン独立戦争）、葡：Guerra Peninsular（半島戦争）、仏：Guerre d'Espagne（スペイン戦争）カタルーニャ語：Guerra del Francès（フランス戦争））はナポレオン戦争中イベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍が共にフランス帝国軍に対して戦った大戦争である。日本ではスペイン独立戦争（上記スペイン語参照）として知られている。この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはウェリントン公に率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである。

戦争は、イベリア半島の性質に大きく左右された。土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りないため、フランス軍はピーク時で3万を数えたものの、軍を集結させることができなかった。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めた。

この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代のさきがけになった。また、この戦争をきっかけにしてポルトガル、スペインの植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きた。

大陸封鎖令 [編集]
1806年にナポレオン1世は、大陸諸国から英国への輸入を禁じる、大陸封鎖令をベルリンで宣言した。中立を維持する2つの国（スウェーデンとポルトガル）は、ナポレオンの通牒をむなしく拒もうとした。1807年のティルジット条約の後、スウェーデンはロシア帝国と戦うことになり、その時には東方に憂いはなくなり、ナポレオンはイベリア半島の港の攻略を決定した。1807年11月、大陸同盟参加に摂政ジョアン王子（後のジョアン6世）が難色をしめしたのを受けて、ポルトガル侵略の任務を帯びたジャン＝アンドシュ・ジュノー指揮下の陸軍をスペインに送った。同時に、スペイン首相ゴドイがナポレオンの委任を受けて、デュポン将軍をカディス方面に送り、スールト将軍をコルナ方面に送った。スペインの2個師団は対立するポルトガルを占領しようと、艦隊奪取を目論みフランス軍と合流した。リスボンは、ポルトガル陸軍がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、軍事的抵抗もないまま、12月1日に攻略された。11月29日にポルトガル王妃と摂政と6000人の人々（艦隊の9000人の船員がそれに加わる）が逃亡したことは、ジョアン王子にブラジルを含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオンにとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島の記念碑に「これが私を滅ぼした。（C'est ça qui m'a perdu）」と記されている。

仏・西軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオンは軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領された。スペインでは貴族が政変でカルロス4世を退位させ、代わってフェルナンド王子がフェルナンド7世として即位した。ナポレオンはスペイン王家をバイヨンヌに追放して、5月5日に2人に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与えたのである。傀儡のスペイン議会はこの新王を承認した。ジョゼフ改めスペイン王ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリードの市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こしたのである。しかしこの蜂起はミュラによって粉砕された。

それまでイギリスはヨーロッパ大陸における軍事作戦で中途半端なへまと相次ぐ敗戦で（1809年のワルヒェレン遠征を最後に）面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍はフランスに対して十分な作戦をできず、イギリスはヨーロッパ大陸からの撤退を余儀なくされてきた。そういうわけで、ポルトガルは対ナポレオン戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。

スペイン軍は、5月19日から21日にかけてのバイレーンの戦いでピエール・デュポン指揮のフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15000人以上の捕虜を得た。6月18日にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに再び事実上の軍事行動を起こす誘惑を掻き立て、初めて王侯貴族でなく人民が「大いなる侵略者」に反乱を起こしたというイギリスの宣伝で、すぐさま珍しい状況をもたらした。

 イギリス軍上陸 [編集]
1808年8月にイギリス軍は少将アーサー・ウェルズリー卿指揮のもと、ポルトガルに上陸した。ポルトガルのベルナルディム偵察隊がロワソンを阻止している間にウェルズリーはドラボルドゥ指揮下の軍を8月17日のロリーサの戦いで破った。8月21日に英葡軍はジュノー指揮のフランス軍とヴィメイロの戦いに激戦を交えた。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略で戦線を維持するフランス軍とその同盟軍をはねのけた。勝てたにもかかわらず、ウェルズリーは軍人として若すぎて、ポルトガルに新たに補強された遠征隊を指揮できないとみなされ、ウェルズリーの地位は、ハリー・バラードに替えられてしまった。バラードが死ぬと次はヒュー・ダルリンプルが任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ協定に基づき、1808年8月、ポルトガルからフランス軍が撤退することになった。イギリス軍の司令官は、3万の精鋭を率いるジョン・ムーア卿を残して、シントラ協定調査のために本国への帰還を命じられた。

英葡軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレオン自身がイベリア半島に20万の兵を率いてゆくことになった。イギリス軍はブルゴス市近郊で攻撃（ブルゴスの戦い）したが、まもなく長い退却を強いられ、さらにサアグンの戦い、ベナペンテの戦い、カカベロスの戦いを挟みながら、フランス軍の追撃を受けた。1809年1月にア・コルーニャから撤兵して終わった。ムーアは「コルーニャの戦い」（en）として知られる戦闘中に市街防衛の指揮中に戦死した。僅か2ヶ月余りスペインにいて、ナポレオンは元帥に指揮権を戻し、自身はフランスに帰国した。

3月にスールト元帥は北の回廊地帯を通って2度目のポルトガル侵略に取り掛かった。 始めはミノ川でポルトガルの民兵に撃退されたが、チャベス、ブラガを攻略し、さらに1809年3月29日にポルトを攻略した。しかし、アマランテなどの都市のシルヴェイラの抵抗は、スールト軍をオポルトにて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、この国からの退却かの賭けに打って出た。

その間、ナポレオンの勝利でスペイン軍を壊滅させたが、スペイン人をしてスペインにおけるフランスの敗北に大いに貢献することになるゲリラ戦法を開始させることとなった。ポルトガルではミゲル・ペレイラ・フォルハス「戦争大臣」が英国から送られた資金と兵力で国軍の再建を行っていた。1806年から示されてきた軍制改革が実行された。最初は2万人の常備軍と3万の民兵が召集された。その後、この数は常備軍5万、民兵5万に膨れ上がり、「オルデンナンサス」と義勇軍が加わった。

1809年4月にウェルズリーは英葡軍を指揮すべく、ポルトガルに戻った。イギリス軍をその頃フォルハスと各地域の知事によって組織され、ベレスフォード将軍によりイギリス風の戦闘に合わせて改編されたポルトガルの連隊によって、補強した。これらの新軍は5月10日から11日のグリホの戦いと5月12日のオポルトの戦いでスールト軍を破った。北部の全都市がシルヴェイラによって攻略された。

新占領地が気になるポルトガル軍を離れ、ウェルズリーはグレゴリオ・デ・ラ・クエスタ軍に合流すべく、スペインに進軍した。連合軍は7月27日から翌28日のタラベラ・デ・ラ・レイラの戦いでホセ1世率いる王国軍を撃破した。そこは連合軍が、不安定さを露呈し、すぐさま西方へと撤退することとなった、高い代償を払って勝利をおさめた場所であった。タラベラの戦いの勝利でウェルズリーは子爵に叙された。この年、後にスペイン軍はオカナの戦いとアルバ・デ・トルメスの戦いで、ひどい惨敗を喫した。

スペイン軍との共闘がうまくいかなかったことと新しいフランス軍を怖れるようになり、ウェルズリーはポルトガル防衛を強化する決断を下した。リスボンを防衛するために、彼はネベス・コスタ少佐の計画を採用し、主要道と塹壕と土塁に沿って強力な堡塁線(162)を構築し、トレス・ベドラス線を形成した。

1811年7月にフランス軍はアンドレ・マセナ元帥率いる60,000の軍を以って再侵攻した。戦端はコアの戦いで開かれた。その後マセナは「ポルトガルで最悪の道」を辿った。9月27日のブサコの戦いで、有利な位置にいながら不注意な戦術で敗北を喫したが、英葡軍をトレス・ベドラス線まで撤退させた。10月14日のソブラルの攻撃の後で戦況が膠着状態に陥るほどに城塞は印象的なものだった。チャールズ・オマーンの記述によれば「10月14日濃霧の朝、ソブラルで『ナポレオンの潮』が最高潮に達し、そして引き潮が始まった」。ポルトガル人は前線で焦土作戦の対象となった。フランス軍は補給路の欠如と疾病のためについに撤退を余儀なくされた。

1811年初頭、同盟軍は新たなイギリス軍の到着で再度増強され、攻勢に転じた。フランス軍はカディスの包囲を解いた失策が一因となって3月5日のバロッサの戦いで敗北を喫し、マセナは5月3日から同月5日までのフェンテ・デ・オノーロの戦いが膠着状態に陥ると、ポルトガルから撤退した。マセナは25,000の兵員をポルトガルとの戦闘で失い、オーギュスト・マルモンと交代することになった。スールトはバダホスを威嚇するために南部から移動したが、ウィリアム・ベレスフォード率いる英葡軍とスペイン軍により5月16日アルブエラの戦いで追い返された。この血みどろの戦闘のあと、フランスは退却を余儀なくされた。

戦争は一時休戦し、数では優勢でもフランス軍は優位に立つことはできず、スペインのゲリラ活動による圧力が増していた。フランス軍は350.000を超す兵力がスペイン軍（L'Armée de l'Espagne）にいたが、大半の20万を超す兵力が、実戦部隊よりもフランス軍の補給路防衛に当たって失われた。スペインは自由主義的な「1812年のカディス憲法」の草案作りに取り掛かった。

1812年の新年早々にウェルズリーはスペインへの同盟軍の再編を行い、1月19日にシウダード・ロードリゴの城塞化された町を包囲、攻略し、バダホスを4月6日に高い代償を払った襲撃のあと同様に攻略した。両方の町は軍に略奪された。7月17日、同盟軍はマルモンが進軍してきたのでサラマンカに進駐した。両軍はついに7月22日に遭遇した。サラマンカの戦いではフランスは壊滅的な敗北を喫した。ベレスフォード元帥は重傷を負った。フランス軍が再集結したので、英葡軍はマドリードに8月6日入城し、ポルトガルに撤退する前にブルゴスに進軍した。

フランスの起死回生の望みは、1812年ナポレオンの悲惨なロシア遠征によって打ち砕かれた。対スペイン軍から3万の精鋭をロシア遠征に連れて行き、増援と交代が尽き、フランス軍の優位は、同盟軍が1813年に攻勢に転じたので、次第に維持がしがたくなった。

戦術的な動きとして、ウェルズリーは補給基地をリスボンからサンタンデルに移した。

5月末に英葡軍は北へと転じて、ブルゴスを奪取し、その際、英葡軍はフランス陸軍を側面から包囲し、ホセ1世（ジョゼフ・ボナパルト）をサドラ川の谷へと追いやった。6月21日のビトリアの戦いでホセ1世の65,000の軍は、53,000のイギリス軍、27,000のポルトガル軍、19,000のスペイン軍により退路が狭められた。ウェルズリーはフランス軍をサン・セバスティアンから追撃し追い払った。サン・セバスティアンの町は打ち捨てられ、火を放たれた。

同盟軍は退却するフランス軍を追撃し、ピレネー山脈に7月初めに到達した。スールトはフランス軍に命令を与え、反撃を始め、同盟軍の2人の将軍を翻弄しマヤの戦いとロンセスバリェスの戦いで快勝を収めた。だが、英葡軍に厳しく撃退され、勢いを失い、ついに7月28日から30日にかけてのソラウレンの戦いの同盟軍の勝利の後、敵の軍門に下った。

ピレネーの戦いと呼ばれるその週の戦いは、もしかしたらウェリントンにとって最良のものかもしれない。敵との数が拮抗し、ウェリントンは補給路からきわめて遠いところで戦っていたし、フランス軍はその領域を防御していたが、それでも戦争では稀な機動作戦、衝撃、砲火の組み合わせで勝利した。それは戦争の山場であり、このときウェリントンはポルトガル陸軍を「同盟軍の闘鶏」と評した。

10月7日、ウェリントンはドイツでの戦闘再開の報を受け取り、同盟軍は、ビダソア川を渡り、フランスの国境を越えた。

半島戦争はベラ峠、ニーヴルの戦い、バイヨンヌ近くのニーブの戦い（1813年12月10日 - 14日）、オルセの戦い（1814年2月27日） 、トゥールーズの戦い（4月10日）で同盟軍の勝利で行われた。最後の戦いは、ナポレオン流刑後のものである。

 ゲリラ戦 [編集]
この戦争中イギリスはポルトガル民兵とスペインゲリラを支援してフランスの大軍を釘付けにした。フランス軍との戦闘でイギリスの正規軍が用いる装備より安上がりだったことでイギリスは支援を行った。このゲリラ戦は歴史上最も成功したパルチザンの一つで、ゲリラの語源になっている。

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         <pubDate>Wed, 15 Apr 2009 08:48:41 +0900</pubDate>
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         <title>日本相撲協会理事長として</title>
         <description><![CDATA[1957年5月に出羽海理事長自殺未遂事件の後に相撲協会理事長に就任し、相撲協会構成員（年寄、行司等）65歳停年制の実施や、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋の再編と法人化などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山・武蔵川らを腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友玉の海梅吉の意見によく耳を傾けた。

年寄時津風として1横綱（鏡里）、3大関（大内山、北葉山、豊山）等数多くの名力士を育成した。弟子の青ノ里の話では1953年にはまだ自ら弟子に稽古をつけていたという。

ちなみに現在でも時津風部屋は、「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名とともに掲げている。北葉山が入門した時、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「“道場”ならそこだよ」と教えられたという。

1960年に相撲協会の財団法人化35周年式典が行なわれた際に理事長として挨拶状を読み上げることになったが当日挨拶状を渡す係だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻った。時津風は秀ノ山が戻るまでの間土俵上で直立不動、当初失笑が洩れていた館内はやがて静まり、そして拍手の渦となった。中には涙をこぼす者もあったという。

1968年12月16日、劇症肝炎にて逝去。享年57（満56歳没）。死の直前に東大病院に入院する際、死に装束を模した白のスーツで向かったという。戒名は霊山院殿法篤日定大居士。

 取り口、強さなど [編集]
右手と右目にハンデがあった事もあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、相手を軽々と放り投げた。引退後5年経って小結若瀬川と花相撲で対戦したときも上手投げで勝った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形であった。斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの締めつけが凄まじく強烈な為、ほとんどの相手力士が利き手である右下手の力をその上からかぶさる左上手に完全に殺されてしまい、何もできなくなって最後には上手投げを食らうという。

双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法である。なお、「打っ棄り双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたのだが、当時は通用せず結果的にそのようになってしまっていた。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にし相当の番数をこなしてもなお、息が上がることがなかったという。

非力と称されることもあったが蔵間竜也によると、亡くなる直前ですら座ったまま軽々と銅の火鉢を持ち上げたという。

また、戦時中の国家主義的な雰囲気を背景に敢闘精神が強調された風潮のなか、不敗を続ける双葉は神国日本の象徴として絶賛を受け続け、双葉山の活躍により春秋園事件で落ちた相撲人気が再び盛り返した。

どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)。後述のように双葉自身が無駄な動作を嫌い土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためであるが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。

相撲態度に関しては文句が無かった一方で、土俵入りに関しては男女ノ川同様に腕を廻して拍手を行ったため酷評された事もある。また、後にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。

幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率8割2厘。繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘（取り直し制度導入以降の最高）、優勝12回（年2場所制での最多）、全勝8回（現在に至るまで最多、年6場所制となってから大鵬がタイ記録樹立）、5場所連続全勝（現在に至るまで最多）、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過（明治以降唯一）、69連勝（記録に残っている1757年以降最高）など、不滅の足跡を残した。
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 その他　 [編集]
「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に番付上に誤記されたものである[6]。 
現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えた――という話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。 
右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。ちなみに、横綱昇進後に喫した23敗は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。右目が見えないことは公表されていなかったが、櫻錦に敗戦したとき、飛び違いという決まり手であったことから、双葉山は目が悪いのではないかという噂が広がった。なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「我々は皆双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」という。 
国民的人気を集めた双葉山だったが花柳界においても例外ではなく、新橋や柳橋の芸者連は“双葉関の貞操を守ろう”と「さわらぬ連盟」なるものを作り互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時まだ独身であったことや、その童顔もあって、「童貞横綱」などとも呼ばれたが、栃錦が新弟子の頃、師匠春日野（元栃木山）のつかいで料亭に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんなきれいな人がいるのかと思った」ほどの美女をはべらせていたと証言している。 
孫娘（次女）は現在舞台女優の穐吉美羽。 
孫娘（長女）は元宝塚歌劇団77期生・双葉美樹（2001年退団）]]></description>
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         <pubDate>Tue, 31 Mar 2009 09:56:49 +0900</pubDate>
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         <title>奥の院</title>
         <description><![CDATA[奥の院 - 本堂の全貌を見渡すことができる位置に建つ。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置する。ただし本尊は立像でなく坐像である。 
成就院 - 境内北方にある、清水寺の本坊。池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常は非公開である。なお、内部での撮影は原則として禁止となっている。 
地主神社 - 本堂の北にある、清水寺の鎮守社で縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年（1633年）の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にある狛犬は地主神社のものである。 
坂上田村麻呂のゆかりからアテルイとモレを慰霊する石碑（1994年建立）がある。 

 本尊 [編集]

 本堂本尊 [編集]
清水寺本堂本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏である。この像については学術調査が行われたことはなく、写真も公表されていない[3]。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏（けぶつ）を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した彫像、画像が日本各地に存在する[4]。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。
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本堂本尊は、20世紀末以降では以下の機会に開帳された。

2000年3月3日から同年12月3日まで（33年に一度の開帳） 
2008年9月1日から11月30日まで（西国三十三所巡礼の中興者とされる花山法皇一千年忌記念の結縁開帳。2009年3月1日から5月31日にも開帳予定） 

 奥の院本尊 [編集]
奥の院本尊の秘仏千手観音坐像（重要文化財）は、鎌倉時代の作で一木割矧造、像高63.9センチメートル。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に24の小面を乗せ、計27面をもつ特異な形の像である。本面と左右脇面は額に縦の眼を有する三眼とすること、膝前で組み合わせる宝鉢手は親指と人差し指で輪をつくる、阿弥陀如来と同様の印相とすること、光背に観音の三十三応現身を表すことなど、図像的に特異な点が多い。作風には快慶風が強いが、作者を快慶と同定するには至っていない。

本像は2002年に重要文化財に指定され、翌2003年3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。また、2008年8月から11月にかけて奈良国立博物館及び名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所」に出陳された。

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         <pubDate>Mon, 16 Mar 2009 14:42:41 +0900</pubDate>
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         <title>変形!ヘンケイ!トランスフォーマー</title>
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サイバトロン
C-01 総司令官コンボイ／Optimus Prime 
トレーラーキャブに変形する、ただしコンテナは付属していない。メッキはフロントグリルに施されている。彩色は全体的に Classics 版より暗めである。ロボットモードの両肩にあった青い塗装はなくなり、そこには代わりにサイバトロンマークが書き加えられた。また部分的に青く塗られていた大腿部も銀一色に変更されている。ところどころにあった黄色いラインは削除された。また、ビークルモードの端の窓も塗装が施された。 
C-02 情報員バンブル／Bumblebee 
ビークルモードのモチーフはプジョー・206を思わせるデザインに変更されたが、ロボットモードのデザインはG1に近い。武器は持たないが、背中に接続可能なフライトユニットが付属。フライトユニット自体もジェットスキーに変形し、ビークルモードではバンブルと連結させる事が可能。 Classics 版では白いラインが目立っているが、ヘンケイ版では Classics 版より濃い黄色であり、当時のバンブルに近い配色になっている。また、 Classics 版ではあまり塗装されていなかったフライトユニットも黄色系統の色に塗られている。 
C-03 指揮官グリムロック／Grimlock 
ティラノサウルス型のメカに変形。G1の同名キャラと比べるとスリムな体形になっている。ロボットモード時の胸にはスパーククリスタルを型どったものが付いている。 
フィギュア王のエピソードでは、ロボットモードでは古風な侍を思わせる性格に豹変するという設定になっている。本人曰く、ロボットモードでは無茶をやり過ぎてしまうため、あまり好んでロボットモードになりたくないらしい。 
ヘンケイ版の特徴であるメッキ処理はビーストモードで首周りと後ろ足の爪になる部分に施されているが、この部位はG1の同名キャラの玩具でもメッキパーツだった。 
C-04 諜報員リジェ／Mirage 
フォーミュラカーに変形。ロボットモードはG1のリジェとは大幅に異なるデザインとなっている。 Classics 版ではリアウィングに「Witwicky Sparkplugs」とG1のスパイクの父親であるスパークプラグの名前が書かれていたが、ヘンケイ版ではリアウイングはメッキパーツとなり、文字は書かれていない。 
C-05 騎士ホットロディマス／Rodimus 
G1の同名キャラの玩具と比べると可動、プロポーションともに大幅に向上している。 
海外では登録商標の都合で「Hot Rod」の名称が使用できなかった為「Rodimus」の名称となったが、アメコミではこれに先がけて「Rodimus」の名称で新作に再登場を果たしていた。 
日本発売品はリアウイングにメッキが施されている他、胸のファイアーパターンがアニメ設定を意識した塗装となっており、サイバトロンマークも追加されている。 
ビークルモードのモチーフは旧作の印象を残しつつ童夢-零に似たデザインに変更されている。左腕にはトランスフォーマー ザ・ムービーで使用していた鋸を意識したと思われる「レーザーチェーンソー」なる丸ノコが装備されているが、 Classics 版では武器ではなく「データCOMコミュニケーター」という名称で、設定が異なっている。 
また、 Classics 版にあったアタックモードが、日本版では無いものとされている（ただし、変形構造は変わっていないため、日本版でも変形させる事は可能）。 
C-06 空中防衛戦士スカイファイアー／Jetfire 
戦闘機に変形。IDWコミックのデザインを参考に製作された。 
アニメ版の意匠を基本に、旧玩具の基となったVF-1 バルキリー的なエッセンスも意図的に残されている。 
VF-1Sを思わせるマスクを取り外す事で、その下にはアニメ版に準拠した顔が現われるギミックを採用。日本で発売されたものは全体的にやや白を強調した塗装に変更されている他、キャノピー部分に白い塗装とサイバトロンのエンブレムおよび赤の横線が追加され、マスクのバイザーが青から赤に変更されており、より旧玩具、アニメ版に似た雰囲気になっている。 
またマスクを装着し、全ての武器を装備した形態はバトルアップモードという名前が付けられている。なお、バトルアップモードの彼のマスクは、玩具に付録している漫画ではスタースクリームが作った洗脳装置という設定になっているが、結局欠陥品だった為、すぐに元のサイバトロンとしての心を取り戻し、マスクもそのまま武器として使用する事になった。 
C-07 戦士サンストリーカー／Sunstreaker 
ランボルギーニ・ガヤルドに似た車体に変形。ルーフを回転させるとそれに合わせて頭部がせり出す、実写映画版玩具にあったオートモーフ機構に近いもの搭載されている。日本版では、色がオレンジに近い黄色になっており、電子推進ブースターと武器にメッキが施されている。 
C-08 戦略家プロール／Prowl 
日産・フェアレディZに似たパトカーに変形。ヘンケイ版では銃とロボットモード時の両肩のミサイルランチャー、そしてリアウィングがメッキ仕様になった他、パトライト部分のパーツが日本のパトカーと同じ形のものに変更されている。 
C-09 戦士ランボル／Sideswipe 
サンストリーカーの仕様変更品。頭部を新造し胴体を前後逆にする事によりサンストリーカーと差別化している。装備の違いも再現され、 Classics 版に付属していたエアインテーク（サンストリーカーと同型）が省略されている。また、ビークルモードのナンバープレートには英語表記でランボル自身の名前（RAMBOL）が書かれており、ヘンケイ版と Classics 版とではそれぞれ書かれている名前が異なっている。なお、メッキが施されている部分はサンストリーカーと同じである。 
C-10 射撃手サイバトロンストリーク／Silverstreak 
かつてのキャラ名はストリーク。プロールの仕様変更品で、全体の色の変更に加えパトライトが削除され、その部分はサンルーフの様に処理されている。ヘンケイ版は Classics 版では黒かった部分が銀色に変更され、タイヤのホイールは赤から薄い灰色になっており、胸のサイバトロンのエンブレムの大きさも異なる。メッキが施されている部品はプロールと同じ。 
C-11 警備員アイアンハイド／Ironhide 
G1アイアンハイドのリメイクだが、G1と異なりSUVタイプの車体に変形。ヘンケイ版は武器とライトがメッキ仕様で、G1に近い色に塗り直されている。 
C-12 密林巡視員サイバトロンチータス ／ Cheetor 
かつてのキャラ名はチータス。ビーストウォーズ (BW) シリーズからの初のラインナップ。チーターに変身。彩色の変更だけでチーター以外のネコ科の大型獣（虎に変身するタイガトロン、黒豹に変身するシャドーパンサー）にも使いまわされた旧玩具と比べ、ビーストモードの体形のチーターらしさが向上している。ただしBWの劇中や旧玩具では銃を武器としていたが、本シリーズではテールホイップという鞭とチーメランカッターという手裏剣のような武器をもつという設定に変更されている。 
Classics 版と比べるとヘンケイ版はBWのアニメでのものに近い彩色になっている。メッキパーツはロボットモードでの頭部とチーメランカッター。 
かつてのチータスと同一人物なのかは不明だが、付属漫画では「〜ジャン」「うつべし」というBWのアニメ（日本語版）の中での口癖が見られる(因みに武器のチーメランという名称も、リターンズアニメ版で、彼が武器である剣を投げる際に発していた台詞である)。経緯は明らかになっていないが、サファリパークの動物達とそこに埋蔵されているエネルゴンを守っている。 
C-13 偵察員ハウンド ／ Hound 
ジープらしきオフロードカーに変形。企画段階ではミリタリーテイストが強かった。ヘンケイ版ではG1に近いカラーリングになり、バンパー部分がメッキ処理されている。 
カセットロンのジャガーが付属。ハウンドの荷台に取り付けられる他、G1サウンドウェーブの玩具に収納できる。旧玩具に付属していたロケットブースターはついていないが後ろ足にそれ似たモールドがある。旧玩具に比べると横幅が増したプロポーションになっている。 
C-14 看護員ラチェット／Ratchet 
G1同様アイアンハイドの仕様変更品。USVタイプの救急車に変形。色の変更に加え、頭部がG1ラチェットを思わせるものに新造されている。ヘンケイ版ではアイアンハイド同様、G1に近い色に塗り直されている他、プロールと同様にパトランプも変更されている。メッキが施されている部品はアイアンハイドと同じ。 
C-15 救助員サイバトロンインフェルノ／Inferno 
かつてのキャラ名はインフェルノで、消防車（ポンプ車）に変形。ヘンケイ版では日本の消防車のような濃い赤色で、Classics 版では白かった回転灯が薄い赤色に塗られ、401のマーキングが削除されている。モチーフのビークルは変わったが、胸に運転席がそのまま残るロボットモードのデザインはG1をイメージしており、特に顔の造形は旧玩具に非常に近い。また後頭部にG1時代にあった肩の羽根を思わせるようなディテールが存在している。 
メッキパーツは武器のライフルガンとロボットモード時の肩と腕のパネルに使用されているが、G1の玩具も武器にメッキが使われていた。 
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         <pubDate>Sun, 01 Mar 2009 11:14:19 +0900</pubDate>
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         <title>大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付・仙石伯耆守</title>
         <description><![CDATA[大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付・仙石伯耆守のもとに出頭させ口上書を提出し、幕府の裁定に委ねることにした。幕府は46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に引き揚げさせて、それから細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の4大名家に預けさせた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の　水の（水野）流れは清けれど　ただ大海（毛利甲斐守）の沖（松平隠岐守）ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。
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赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士は熱烈に賞賛した。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か助命かで対応に苦慮した。また、当初は幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいたとされている（『柳沢家秘蔵実記』）。その一方で、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激したとされる幕閣も存在して、その内部でも意見の違いがあった。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日（2月8日）に「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げ。」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出している。

学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げることはできないとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張する。

こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾くが、かつての自分の裁断が過ちだったことを認めてしまうことにもなりかねないので、皇族から出された恩赦という形を得るため、輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁し、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至った。 しかし法親王は「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今、死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる。」と延べ、これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意した。

元禄16年2月4日（3月20日）、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。遺骸は主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。浪士達は切腹の作法を知らず、前日に教えられた上で切腹したとされている。

赤穂浪士の遺子のうち、出家した者を除き15歳以上の男子は流罪となった。宝永3年1月20日（1706年3月4日）、吉良義周が配流地で死去し、三河吉良家の宗家は絶えた。

宝永6年1月10日（1709年2月19日）、将軍綱吉が死去し家宣が将軍を継ぐと、恩赦が出され赤穂浪士の遺子たちも放免となった。同年8月、浅野大学は赦免され、500石を拝領して再び旗本となり、寄合に列せられた。正徳3年（1713年）、内蔵助の三男である大三郎は広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた。

 逸話や伝承の類
元禄赤穂事件には忠臣蔵への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

脇坂安照が吉良に一矢報いる
殿中刃傷があった直後、播磨国竜野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良上野介とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。

村上喜剣
薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石内蔵助をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良上野介を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるとされる。

大野や奥野は第二陣であった
大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が失敗した時に備えた第二陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県の板谷峠に潜伏していた。しかし大石の討ち入りが成功したという報を聞き、大野は歓喜してその場で自害したとするもの（実際に板谷峠に大野の墓が現存しているが、後世の人間に作られたといわれる）。奥野将監にも同様に第二陣の大将とする逸話があるが、彼にはさらに浅野長矩の隠し子の姫を幕府に知られぬようこっそり育てる役目を大石から命じられていたためやむなく脱盟したという逸話がある。

大高源五の詫び証文の逸話
大高源五が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかしながらこの大高の詫び証文とされているものは後世の人が作ったものと言われている。神崎与五郎にも同様の逸話がある。

岡野金右衛門とお艶の逸話
岡野金右衛門は吉良邸絵図面を手に入れるため、吉良上野介の本所屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘お艶と恋人になる。しかし金右衛門はやがて本当にお艶に本当に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

大高源五と宝井其角
大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人宝井其角とも親交があったため、このような逸話が残る。討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。

赤埴源蔵、徳利の別れ
赤埴源蔵重賢は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる。」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を飲み交わし、帰って行く。その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良上野介の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。

俵星玄蕃
杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。これは文化の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作とされる。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は仮名手本忠臣蔵の主人公大星由良助（大石内蔵助がモデル）の「星」の字。

上杉家の忠臣
討ち入りを聞いた上杉綱憲は実父を助けるため吉良邸への出兵を宣言。しかし江戸家老色部又四郎（または千坂兵部）が上杉の御家を守るために主人の前に立ちふさがり、「殿は吉良家の御当主にならず！上杉家の御当主でございますぞ！」と一喝。綱憲はその迫力に威圧されて出兵を諦めるしかなかった。大佛次郎の小説「赤穂浪士」に上杉家の江戸家老が上杉綱憲を止める場面があることにちなむ。しかし色部は実父の喪に服していてこの日上杉家に出仕しておらず、このようなことはできなかった。実際に綱憲を止めに来たのは家臣ではなく上杉家親族の高家畠山義寧。また討ち入り中ではなく討ち入り後のことである。

色部や千坂ではなく、綱憲の母富子が綱憲を押しとどめるという逸話もある。

 南部坂雪の別れ
討ち入り直前、大石内蔵助は南部坂の浅野長矩正室瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。 物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が内蔵助の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合も。

 その他
「不忠臣」のその後
赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で（寺坂は士分ではなく足軽身分）、8割以上が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招へいされる一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志片岡源五右衛門から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林杢之助も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父内田三郎右衛門に家を追い出されるなどしている。元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗るほかなかったとされる。

ただし、江戸時代に同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切った意趣返しをしたのは本件だけであり、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったとして倫理的な批判が向けられたわけではない。

刃傷事件の原因
浅野内匠頭の「この間の遺恨覚えたか」という発言に関しては、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』に内匠頭が「遺恨あり」と証言していることが記されている。いずれの書物も内匠頭が遺恨を主張していることについては触れているが、刃傷の原因となった「遺恨」の細かい内容については記していない。

『忠臣蔵』などの芝居に由来する通説では、院使饗応役の伊達左京亮が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良上野介へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野内匠頭は鰹節2本しか贈らなかったために賄賂好き（後述の様に、現在の賄賂とは意味合いが異なる）な吉良上野介の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野内匠頭に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。しかし内匠頭は17年前の天和3年（1683年）にも同じ勅使饗応役に就任している。

また進物や賄賂についても、公費の予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった。広大な領地と莫大な石高をもつ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮旗本に過ぎないので、わずかな領地と石高しかもっていない。吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野内匠頭の収入に及ぶべくもない。高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料や必要経費の性格が強く、当時は別に卑しまれている類のものではなかった。

浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出する塩の製法と販路の問題で対立があったという説があった。これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆『吉良の塩』の中で唱えていたものである。しかし、実際には吉良上野の領地にあったとされる塩田の遺跡は大河内家の領土であった。塩による遺恨説は、飛び地の領土に気付かずに吉良の領土に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。

両者の性格に原因を求める説もある。浅野内匠頭については痞（つかえ）という、今で言う心療内科的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかとも言われている。史実だけを見ると、浅野内匠頭は、47士の1人千馬三郎兵衛を閉門処分にしており、重臣近藤正憲も組頭から解任している。また47士の1人不破数右衛門も藩から追放している。このうち千馬は直言癖があり、不破は人を斬って、それぞれ内匠頭を激怒させたといわれている。

吉良上野介は、亀井隠岐守茲親を苛めたという逸話が津和野に残っており、嫌がらせが常習的だったとも言われる。大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説を採っており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をして、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。また史実を見ると、吉良上野介は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。破綻寸前となった上杉家を上杉鷹山が立て直すエピソードが有名だが、そこまで上杉家を傾けたのは上野介とも言われている。

しかし、実際には関ヶ原の役に際して徳川家康に敵対し、米沢藩50万石余りに減封されるものの、120万石を領有していた当時の藩士を解雇しなかった為、収支に対し人件費だけでも倍の出費を強いられ、また体面を保つ為の出費も著しかったなど、一概に上野介のみを非難する向きも疑問があり、仮名手本忠臣蔵を盾に、自藩の失策を弁明しているとも受け取る事が出来る。

吉良上野介が浅野内匠頭に美しい小姓を譲ってくれるよう懇望したが、断られたため恨みをいだいたという男色（衆道）遺恨説も、幾つかの文献に記されている。

学術的にはほとんど取り上げられていないものの、陰謀史観の一つとして、本来は吉良上野介の側を陥れるはずだった陰謀に浅野内匠頭が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした御台所鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説もある。

東京大学総合図書館蔵、南葵文庫の『梶川日記』によれば、刃傷のときに浅野が「この間の遺恨覚えたか」などと叫んだ事実はなく、ただわめきながらいきなり斬り付けたとなっている。しかし、上野介の傷を治療した栗崎道有という医者が、当時の内匠頭について「乱心にあらず」と記録している。

 内蔵助の意図
内蔵助がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の内蔵助の実筆の手紙（お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙）に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。

幕府裁定の正当性
本件に関する幕府の裁定は浅野の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良は抜刀はしていないので理由の如何を問わず無罪となる。主君である浅野内匠頭だけが切腹となり、吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと言われており、確かに江戸前期の刃傷事件には喧嘩両成敗の“判例”がいくつかある。

元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

寛永4年（1627年）：小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。喧嘩両成敗により猶村は切腹改易、鈴木と木造も改易となった。 
寛永5年（1628年）：目付豊島刑部少輔明重が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した豊島事件 
貞享元年（1684年）：若年寄稲葉石見守正休が、本丸で大老堀田筑前守正俊を殺害し、正休もその場で殺害された事件。 
江戸城外でも刃傷事件が発生している。

慶長14年（1609年）：水野忠胤の屋敷で、久米左平次（大番士）が松平忠頼（遠江国浜松藩主）と服部半八（大番士）に刃傷に及ぶ。久米と松平はその場で斬られて死んだ。喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、服部も捕らえられて切腹改易となった。また直接は関係ない水野も切腹となった。原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。 
延宝8年（1680年）6月26日、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長に対して刃傷に及んだ。内藤は切腹改易。永井は即死した。永井家も改易に処されたが、これは喧嘩両成敗ではなく無嗣のためであった。 
徳川家光の時代から徳川綱吉の時代まで長く刃傷事件がなく、また綱吉時代に起こった殿中刃傷にしても、被害者がその場で殺害されており、ただ加害者を切腹させればよいだけで、被害者も加害者も生き残った例が長く存在しなかった。

「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であり、かぶき者が好んだ法であった。戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠はこれを幕法として採用したが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世である。戦国時代の残滓が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあったという。

江戸幕府は身分制社会であり、法や捜査は決して近代的でないし平等でもない。「喧嘩両成敗」の概念は要するに捜査の価値もない禄高の低い軽輩者の喧嘩をおさめ、捜査の手間暇を省くために適用されることが多かった。大名身分に喧嘩両成敗の適用は伊達美作守村和の事例ぐらいしかない。

後世にひとつだけ浅野と吉良の事件に似た刃傷事件が発生している。徳川吉宗の時代の享保10年7月28日（1726年8月25日）に江戸城本丸で発生した事件である。水野忠恒（松本藩主7万石）が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就（長府藩主5万7,000石）が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野を秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われる。

後世の顕彰
1868年（明治元年11月）、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する勅語を贈った。これは江戸庶民に親しまれていた大石を顕彰することで、新政府への共感を得る効果があった。

 創作物
忠臣蔵十一段目夜討之図。（江戸後期 歌川国芳） 
浪士を描いた浮世絵。（江戸後期、歌川国芳）事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月（1748年8月）人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。劇化の詳細については、忠臣蔵を参照のこと。

小説 
芥川龍之介『或日の大石内蔵助』 （1921年）ISBN 4000919725 
大佛次郎『赤穂浪士』（1927年）ISBN 4829110228 
池宮彰一郎 
四十七人の刺客（1992年）上巻;ISBN 4043687036,下巻;ISBN 4043687044 
その日の吉良上野介（1996年）ISBN 4043687052 
最後の忠臣蔵 ISBN 4043687109（『四十七人目の浪士』（1997年）ISBN 4101408130 改題） 
井沢元彦『元禄十五年の反逆』（1988年） ISBN 4106027054,文庫版（1992年） ISBN 410119212X 
小林信彦『裏表忠臣蔵』（1988年）ISBN 4103318139,新潮文庫版（1992年） ISBN 4101158231,文春文庫版（1998年） ISBN 416725607X 
宮部みゆき 『震える岩―霊験お初捕物控』 
評論 
丸谷才一 『忠臣蔵とは何か』（1984年）ISBN 406196013X （忠臣蔵のみならず、事件の本質にも言及） 
野口武彦 『忠臣蔵　赤穂事件・史実の肉声』（ちくま新書　1994年　ちくま学芸文庫　2007年） 
尾崎秀樹編 『徹底検証「忠臣蔵」の謎』（講談社文庫　1998年） 
漫画 
杉浦日向子「吉良供養」『ゑひもせす』収録 
アニメ 
「タイムパトロール隊オタスケマン」 - 第49話「アターシャたち全員クビ!」（1981年1月3日放送）でネタになっている。討ち入りを阻止するように歴史を改竄しようとする。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 10 Feb 2009 14:50:19 +0900</pubDate>
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